国頭村奥の町並 

地図


奥の民家

 国頭村奥は沖縄本島最北部に位置する国頭村の北部にある集落で、東は太平洋に臨む。西銘岳に源を発する奥川の下流左岸に立地する小さな集落。
「正保国絵図」「絵図郷村帳」に国頭間切「おく村」と見える。琉球国高究帳でも「おく村」と記され、石高77石余、うち田69石余・畑8石余。琉球国由来記では「奥村」と記されている。
真王の時代には首里城下の建設に伴う建築用材を供給し、近世になってからは山林が開墾され、山林の荒廃が進んだ。18世紀前半頃になると、沖縄本島で美林が残るのは羽地・大宜味・久志・国頭の僅か4間切になってしまった。
雍正6年(1728 享保13年)三司官となった蔡温は、農山村の産業基盤を固めるため、植林の奨励を行い、国頭間切においては乾隆元年(1736 元文元年)造林と巡見が行われた。
雍正13(1735 享保20年)山林の盗伐・密売の取り締まりと、港での船改めをする勤番役の詰所が置かれたというから、港の機能もあったようだ。
「琉球評定所僉議」康熙29年(1690 元禄3年)の項によると、頭数(多分人口のこと)210とある。
近世ではソテツの多い村で、康熙48年(1709 宝永6年)・雍正3〜4年(1725〜26 享保10年〜11年)の飢餓ではソテツを食糧にして飢えを凌いだ。
国頭間切には島津の専売品となった鬱金(ウコン)の栽培が義務づけられていた。
家数・人数は明治13年102・541、明治36年146・886、昭和25年の人数は1,296、昭和52年の家数95・人数378。
奥で特筆するものに共同店がある。日露戦争による非常特別税制や明治37年の大旱魃は村に大きな打撃を与え、それが奥の共同店を設立させる契機となった。共同店の業務内容は、住民が搬入した林産物と生活物資の交換、共有船による林産物の那覇市場での販売を主とし、生活基盤の安定を図るものであった。大正3年に無限責任販売購買信用組合になり、林産物と生活必需品の交換禁止、第一次大戦後の物価高騰によって、事業の継続停止に追い込まれた。しかし大正5年には事業を復活させた。以後、共同店は販売・購買・信用の面で順調な発展を見せ、製茶・精米・酒造などの事業にも着手し、特に製茶は県下最大の生産量を誇るようになった。この奥共同店の復活を機に他の集落でも共同店が設立されるようになった。
さて、集落を構成する民家であるが、平屋建て寄棟造りでほぼ正方形の家屋形態である。コンクリート瓦を乗せた家屋が多いが、沖縄独特の赤瓦の屋根も見られる。白い屋根の家がありよく見ると、赤瓦の屋根に白い防水塗料を塗って雨漏りを止めている家だった。集落内の殆どの家ではコンクリートブロック塀で囲われていた。どう云う訳かこの集落では屋根にシーサーがあまり乗っていなかった。
町並み指数 30
参考文献   
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典、編纂委員会  昭和61年
  日本の地名沖縄県   平凡社   (有)平凡社地方資料センター   2002年

奥の町並

奥の町並

奥の町並

奥の町並

奥の町並

奥の町並

奥の町並

奥の民家

奥の民家

奥の民家
古い町並みへ戻る