熊本市の町並み 
船場町・中唐人町・西唐人町・新町
地図


西唐人町の町並み
 熊本県のほぼ中央に位置し、奈良期以来、肥後国の政治・経済の中心地で、近世に入ってからも加藤氏、次いで細川氏の城下町として発展した。
江戸時代は肥後熊本藩領。江戸初め領主は加藤清正だったが、寛永9年(1632)加藤家は取り潰され、代わって細川忠利が入国し、明治維新まで12代240年余り肥後国を統治した。
古くは隈本であったが、熊本に変わったのは加藤清正が今の地に新城を築いた慶長12年(1607)と云われている。その際に坪井川の流路を今のように変更し、防衛上の堀とした。
熊本に最初に城を建てたのは定かでないが、南北朝時代には、当地方の政治の中心は茶臼山の藤崎台辺りで、永和3年(1377)今川了俊が隈本に入り、その居城を隈本城に決めているので、何らかの城はあったようだが、その城のあった場所が特定できていない。
戦国期に入り、文亀元年(1501)頃には隈本には出田山城守秀信が、茶臼山台地東一角の千葉城(現NHK九州の地)にいた。
永正17年(1520)守護職に就いたのは大友重治(後に菊池義武)で、旧居城の千葉城から、いわゆる隈本古城を築いて移ったという。
天正16年(1588)肥後国に加藤清正が入り、関ヶ原の戦いでは東軍に組して、慶長5年(1600)には肥後一国を領して、熊本城を新しく築城した。時期は慶長12年(1607)と云われている。
近代的な城下町の形成は加藤清正の入国に始まり、寛永9年(1632)に入国した細川忠利の時から、光尚。綱利時代には城下町の外郭地域が確定した。
熊本城下は白川の右岸に構成され、城内の二の丸・三の丸は重臣の邸宅に、城の北側から東側にかけては武家屋敷が配置され、城の南手や西部は町人町として町家を配置した。主だった街道筋は町人町を通し、その裏側に武家屋敷を配備した。
坪井川と白川の間は古町と称し、東の白川から西の坪井川までの東西通りが五筋、南北通りが七筋つくられた。最も北に位置するのが
古鍛冶屋町・西唐人町・中唐人町の通りで薩摩街道筋であった。
坪井川の北側には新町がつくられ、城の西大手門正面にあたる町人町であった。
享保19年(1734)では町数86・家数3,368・人数19,939・蔵数605・客屋25・酒造屋94・麹屋60・揚げ酒屋187・馬数51とある。天保2年(1831)には家数4,038・人数20,819。文政8年(1825)の家数4,049とある。
前述のように鍛冶屋町・西唐人町・中唐人町の通りは薩摩街道であるが、唐人町筋と云われ、大正末期までは熊本市の商業の中心地であった。今でも西南戦争で焼失後に復興した漆喰塗りこめの町屋や土蔵が、太平洋戦争でも焼けずに残っている。
江戸期には裏手の坪井川は小島・高橋方面からさかのぼった船の荷物の揚げ降ろし場で、ここから上方などの物資が城下へ供給されていた。
町並み指数 40 
参考文献
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和62
   熊本県の地名  平凡社  下中邦彦  1985年
   歴史の町並み再発見  読売新聞西部本社  読売新聞西部本社  1993年
   熊本県の歴史散歩  山川出版社  熊本県高等学校社会科研究会  1995年


西唐人町の町並み

西唐人町の民家

古京町

西唐人町

新町の町並

新町の町並

中唐人町

中唐人町

中唐人町の町並

船場町の町並
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