熊本市川尻の町並み
川尻3丁目・川尻4丁目
地図


川尻4丁目の町並

 川尻は加勢川の河口に位置し、古くから川湊として栄えてきた。江戸時代には年貢米の積出港、薩摩街道の要衝として繁栄し、熊本・八代・高瀬・高橋と共に肥後五ヶ町の一つに数えられるほど繁栄した町だった。
加藤清正は川尻に御船手を置き、軍港及び年貢米の積出などの商港としても発展していた。天正17年(1589)小西行長の天草攻めの援助のため、加藤清正は1万余の兵を率いて川尻を出発している。文禄・慶長の役の際には加藤清正軍の軍事物資輸送の基地としての役割を果たしている
江戸時代の細川藩の時代になると、川尻町は肥後五ヶ町の一つとなり、町奉行の支配下になり、町奉行所は御茶屋内に置かれた。川尻には豊後鶴崎とともに御船手が置かれ、熊本藩の水軍の根拠地であり、交易では長崎・大坂との取引が盛んであった。
天保3年(1832)の川尻町絵図によると、薩摩街道に沿って北から岡町・岡田町・田町・新町と続き新町橋で加勢川を渡って大渡へ入った。田町と新町の境界をなす東西の通りに、東から横町・見世町・本町・下町・外城町と続きいていた。他に中町・本田町・新田町・小路町・地蔵町・正中島町・柳堀町などがあり、小路町と地蔵町に挟まれて御茶屋があり、その中に蔵や町奉行屋敷が置かれていた。本陣は小路町にあり、島津家が参勤交代時に使用した。
安政3年(1856)の資料によると、家数1,729・人数8,790であった。「郡村誌」によると戸数1,076・人数5,123。港の一ヵ年出入船数約1,170隻で、穀類・醤油・材木などを移出し、穀類・薪・炭・塩・大小瓶・陶器・石炭・綿などを移入していた。
今、伝統的な古い町並は旧薩摩街道よりも、薩摩街道に直交して加勢川沿い北側の道に多く残っている。造り酒屋も残る町並は、白漆喰壁の商家の建物や土蔵・酒蔵などが往時の繁栄を偲ばせ、切り妻造り平入りで中2階・2階建ての建物や土蔵造りの建物が薩摩街道に直交する道に沿って建ち並んでいる。
町並み指数  40 
参考文献
   熊本県の歴史散歩  山川出版社  熊本県高等学校社会科研究会  1995年
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和62
   熊本県の地名  平凡社  下中邦彦  1985年
   別冊太陽日本の町並U  平凡社  湯原公浩  2003年


川尻3丁目の町並

川尻3丁目の町並

川尻3丁目の町並

川尻3丁目の町並

川尻4丁目の町並

川尻4丁目の町並

川尻4丁目の町並

川尻4丁目の町並

川尻4丁目の町並

川尻4丁目の町並
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