北九州市若松区本町は福岡県北東部、北九州市北西部に位置する。江戸期の若松村は現若松区の東端部に位置する。 江戸期の若松村は福岡藩領。村高は「元禄国絵図」50石余、「天保郷帳」124石余、「旧高旧領」50石余、天保6年(1835)の遠賀群中明細帳では50石余、家数269・人数1,022、牛3。天保12年(1841)の修多羅触人高帳では1,057人。 洞海湾の湾口部にあたる若松村は若松湊を抱える港町であり、かつ唐津街道(西往還)の宿駅でもあった。「続風土記捨遺」は「水陸の便よくして行旅の往来しけく、海客の出入甚多し。湊には漁商農工雑り居て人家軒を比へ町をなせり」と記す。若松町ともよばれ、遠賀群内では芦屋と並んで町場が発達していた。 福岡藩の年貢米を芦屋湊から大坂に廻送していたが、響灘での海難を恐れて、宝暦12年(1762)に遠賀川から洞海に通じる堀川が開通すると、福岡藩遠賀川流域の年貢米が若松の修多羅に集結し、そこから大坂に廻送されるようになった。 文化13年(1816)若松に焚石会所が設立されて、堀川を通って筑豊の石炭集散地となり、若松は渡海港として繁栄を見ることとなる。 近代に入って、港湾整備や九州鉄道・筑豊興業鉄道などの鉄道敷設により、筑豊の石炭は若松港に集積され、日本一の石炭積出港となって最盛期を迎える。 今、本町1丁目辺りの市街地には、かって日本一の石炭積出港をして栄えた頃の若松の風情が残っている。旧古河鉱業若松支店ビルは石炭で賑わった若松の歴史を物語るシンボル的な建物。石炭会館もシンボル的な建物で明治38年の建築、旧三菱合資会社若松支店は大正2年の建設、栃木ビルは大正9年建築と近代建築が目白押しに残っている。 一つ残念だったのは本町2丁目にある、創業が明治28年と云う料亭「金鍋」の建物を見るのを忘れたこと。当時の面影が残る現役の建造物として国の登録有形文化財に指定されているのを見るのをすっかり忘れてしまったことが悔やまれる。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和63年 福岡県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 2004年 |
本町1丁目の栃木ビル |
本町1丁目の旧三菱合資会社若松支店(上野海運) |
本町1丁目の上野海運倉庫 |
本町1丁目の旧古河鉱業若松支店 |
本町1丁目の石炭会館 |
本町1丁目の町並 |
本町1丁目の町並 |
本町1丁目の町並 |
本町1丁目の町並 |
本町1丁目の町並 |