この長崎街道の宿駅木屋瀬宿は肥前六宿の一つに数えられ、遠賀川中流域の右岸に位置する。 江戸時代は福岡藩領だったが、一時元和9年1623)〜延宝5年(1677)は直方藩領だった。長崎街道の木屋瀬宿から赤間宿を経て唐津への唐津街道が分岐していた。「続風土記附録」には木屋瀬村内に下町・中町・本町・改盛町・鴈田町・祇園町・鳥町・新町と長徳寺小路・永源寺小路の名が見え、御茶屋(本陣)・町茶屋(薩摩屋・長崎屋)・問屋場・代官所・郡屋・郡牢などがあった。 長崎街道は五街道には入っていないが、鎖国が続いた江戸時代に唯一開港していた長崎と江戸とを結ぶ街道で、西洋の文化や産物・商品が運ばれた街道でもあった。 宿場町だが、遠賀川の水運がもたらす様々な物資の中継地・集散地でもあり商業でも栄えていた。 木屋瀬村の元禄5年(1692)の家数208・人数1,206。天保10年(1839)の人数1,384とある。 元禄5年(1692)に当地を通ったペンケルは「木屋瀬は大きな村あるいは町といってもよい。ここの人々は大へん黒く汚れて見えたが、恐らく石炭を燃やすことが、その原因かもしれなかった」と記しており、もうその時代から石炭が使用されていたことが伺える。 明治初期の家数350・人数1,626とあり、田畑は少なく雑商が多く、特産は菓子・生蝋・蝋燭・瓦・売薬などであった。 宿場は東構口から西構口間約1km程の間だった。東構口には遺跡が残っていないが、西構口は赤間道の分岐点となっていて、僅かに当時の石垣が残っていた。宿場の中程で街道が直角に折れまがった所に北九州市立木屋瀬宿記念館がある。その辺りが宿場の中心で、本陣や脇本陣・問屋場があった所で、商家もこの辺りに多く集まり、居蔵造り商家を中心とした町並みが形成されていた。そこから南側の西構口にかけては旅籠や木賃宿が多くあった所で、西構口近くに豪商だった高崎家住宅があり公開されていた。古い伝統的な様式の家屋(居蔵造り)が連続している所は少ないが、宿場中央部の直角に折れまがった辺り、木屋瀬宿記念館のある辺りは古い町並みとして見ごたえあるところだった。 鹿児島県の歴史散歩 山川出版社 鹿児島県高等学校歴史部会 1997年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和58 鹿児島県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1998年 歴史の町並み再発見 読売新聞西部本社 同社学芸資料課 1993年 九州小さな町小さな旅 山と渓谷社 山と渓谷社大阪支社 2000年 日本の町並みU 平凡社 江田修司 2003年 |
木屋瀬三丁目の町並み |
木屋瀬三丁目の町並み |
木屋瀬三丁目の町並み |
木屋瀬三丁目の町並み |
木屋瀬三丁目の町並み |
木屋瀬三丁目の木屋瀬宿記念館 |
木屋瀬三丁目の町並み |
木屋瀬三丁目の町並み |
木屋瀬四丁目の旧高崎家住宅 |
木屋瀬四丁目の町並み |