唐津市の町並み
大石町
地図


大石町の町並み
 唐津市は佐賀県北西部、北は玄界灘に臨む唐津湾に面し、松浦川の河口に位置する沖積地である。かっては石炭積出し港の唐津港があり、大陸との航路の拠点でもあった。
文禄2年(1593)寺沢広高は豊臣秀吉より上松浦地方の領地を与えられ、その後、慶長6年(1601)にも加領され、12万3千石の大名となった。
寺沢広高は慶長7年(1602)から13年にかけて唐津城を築城し、松浦川河口に城下町を建設した。築城前の唐津村は小さな寒村であったと推定されている。
築城の用材は秀吉の名護屋城を取り壊して転用した。城下町は12町に区分され、後に17町になった。内町11町と外町5町と他に江川町の17町である。
唐津城は北と東を海で隔てられ、西と南を堀で囲まれた要害の地で、城内には多くの武家屋敷を設け、大手門前から東西南北に規則正しい道路を設けた。その道路に沿って内町(本町・呉服町・八百屋町・中町・木綿町・京町・刀町・米屋町・紺屋町・平野町・新町)を、更に町田川を隔てて外町(材木町・大石町・魚屋町・塩屋町・東裏町)と江川町を設けた。
唐津城下町の家数・人数は元禄5年(1692)749・3,972、寛政元年(1789)には888・2,788とあり、天保9年(1838)には810・3,039とある。江戸期の後期になって家数・人数も減少しているのは、領内の経済基盤が弱かったためで、藩財政の行詰りにより城下町も衰微したのである。
この中にあって、石炭業のみが幕末期の唐津を賑わし、唐津城下を救済し石炭問屋が繁栄した。石炭業は明治に入ってからも、当地方の主産業で昭和20年代まで唐津は石炭基地としての役割を果たした。
明治3年には家数1,028・人数3,249、同年の家中人数5,235とあるので、8000人を超える人々が居住していたことになる。そして明治11年には家数1,816・人数7,789とある。
そして今回訪ねた大石町は、江戸時代には城下町の外町にあたり、城下より東の郷方への出入口で、唐津でも最も古い町の一つである。文化年中記録に「古来本軒百十軒、東西二丁三六間、人数三百七十七」とある。
今、町並みを歩くと平入り切妻造り中二階建ての町並みが展開している。一部伝統的な様式の家屋が連なる所もありなかなか見ごたえある町並みであった。中二階建ては一般的には虫籠窓が多いのだが、この唐津では格子が入っているのが標準で、与力格子や千本格子が多く見られる。改造されて窓ガラスになっている所も多かった。
町並み指数   40  
参考文献
  佐賀県の歴史散歩  山川出版社  佐賀県の歴史散歩編集委員会  1995年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和57年
  佐賀県の地名  平凡社  下中邦彦  1980年  


大石町の町並み

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