呼子町呼子は佐賀県北部、東松浦半島の先端に位置し呼子の入江に面する集落。呼子港は北面に加部島が玄界灘の波浪を防ぎ、深い入り江にある天然の良港で、古来から大陸渡航の船泊として知られ、近世は沿岸廻船の停泊地として栄えた。 江戸はじめは唐津藩領、慶安元年(1648)幕府領、慶安2年(1649)から唐津藩領で明治を向かえる。 江戸時代には、呼子は沿岸廻船の船泊地として賑わい、遠見番所・藩境番所が置かれ高札場もあった。廻船の取り締まりの藩の役所もあり、港の繁栄とともに船宿もでき飯盛女もいた。 藩政期中頃より呼子は捕鯨の基地としても栄え、そのため魚見番所が設けられていた。 町並みは呼子浦に面して北から南へ細長い一筋の道の両側に沿っている。通称の呼び方に北方から先方(さきがた)町・海士(あま)町・釣町・小倉町・西中町・中町と並び浜組という。浜組は漁業や廻船に従事する人々がそれぞれの職業別に町を造って住んでいた。海士町はアワビ・サザエを採る人の町で、釣町は鯛を釣る人達が住む町だった。岡組は宮の町・天満町などが岡組であった。 藩政期の後期になると、呼子浦は唐津藩の特産物の俵物の集荷場所として活気を呈した。俵物とはナマコを干した煎ナマコ・アワビ・フカヒレなどで、藩の専売品として重視されていた。64軒もの呼子問屋商人がいた。これらの呼子問屋商人は主に浜組の南の方・岡組の北の方に店を構えていた。 寛政元年(1789)には家数291・人数1,174、船数112(穀船23・網船4・天当83・天満2)。この中で穀船23艘は呼子の御用商人の持船で、近隣浦々の海産物の集散に用いられていて、この地が海産物をはじめとする物資の集散地であったことが判る。 明治3年の家数474。明治21年の漁家数120・人数529のうち専業者が426人とある。大正3年の家数491・人数3,124、うち漁家210とあり、漁業従事者390とある。 今古い町並みは海岸の新しい道より一筋山側の細い旧道に沿って展開している。旧道の中程に一際目を引く広大な商家風建物がある。それが中尾家住宅で捕鯨で財を成した豪商の家屋である。その辺りを境にして北側の道路の両脇には漁師町の光景が広がり、南側は商店街になっている。商店街には日本三大朝市(高山・輪島・呼子)の一つと云われる呼子朝市が開催されていた。 北側の漁師町の様子も一様でない。その中でも南側では白漆喰を塗りまわした商家建物が連なる。廻船業や問屋だった名残を残す建物が多い。つい最近まで商業活動で賑わっていたような感じのする町並みである。そしてその北には板囲いを多用した漁師町が展開している。 次ぎに中尾家の南側も一様な町並みではない。北の方は古い形式の問屋商家建物が連なるが、どの家も営業されていない建物だ。だがその南になると朝市会場になり活発な商業活動が行われている地域に入る。朝市には平日の午前8時過ぎに訪ねたのだが、おばちゃんの威勢のいい掛け声が響き、多くの買い物客や観光客で賑わっていた。 それにしても玄界灘に面する呼子の町並みに白漆喰塗込めの商家建物が多いのにはびっくりする。 商家が多いのは歴史を見ると納得できるが、玄界灘に沿った海岸の建物が白漆喰だったのは意外だった。それも呼子の沖に加部島が横たわり玄界灘の荒波を防いでいるからだろう。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和57年 日本の地名佐賀県 平凡社 下中邦彦 1980年 佐賀県の歴史散歩 山川出版社 佐賀県の歴史散歩編集委員会 1995年 九州小さな町小さな旅 山と渓谷社 山と渓谷社大阪支局 2000年 |
呼子町呼子の町並み |
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呼子町呼子の町並み(中尾家住宅) |