唐津市鎮西町名護屋は佐賀県の北西端、東松浦半島の北西部の深く入り込んだ名護屋浦の西側に位置する。 江戸はじめ名護屋村は唐津藩領、慶安元年(1648)幕府領、慶安2年(1649)からは唐津藩領。村高は「慶長国絵図」では「名護屋城2,843石余」、元和検地では1,839石余、「正保国絵図」では1,995石余、延宝7年(1679)には1,860石余、「天保郷帳」では1,925石余「旧高旧領」では1,930石余。正保5年(1648)の名護屋浦分の漁家数68・同人数90。寛政元年(1789)の家数252・人数1,039、馬22で、これは浦分・海士分を除いた村内状況である。文化年間(1804〜18)頃の家数323・人数1,387で、浦分家数105・人数462、海士分家数96・人数402。 天保9年(1838)の巡見手鑑によると、名護屋村は浦分・釣分・町分に分載されており、家数205・人数891、馬53・牛141。浦分は家数96・人数440、馬4、釣分は家数82・人数374、町分は家数77・人数346。船数は全体で88艘あった。 「明治11年戸口帳」によると家数400・人数1,707とある。明治21年の漁家数153・人数591(専業259・半農半漁の兼業332)。船数181(釣船81・地引網船4・鮑船24・延縄船29・生海鼠船18・網船25)であった。 名護屋港を中心に漁業が盛んで、壱岐方面に出てタイ・ブリ・イワシ・アワビ・ナマコ・サバ・イカなどを獲っていた。大正4年の家数411・人数2,287、うち漁家数340で漁船350隻も所有していた。 豊臣秀吉の朝鮮出兵の折、水先案内の功績によって名護屋浦の漁師たちは松浦郡沿岸で自由にアワビ・サザエを獲る入海権をもらった。この権利は明治に入っても続き、明治30年には湊村(現唐津市)から長崎県境までの潜水漁業入漁権を認められた。そして現在でも名護屋は県内有数の大型漁港である。 今でも岡と浜に分かれ、岡は7集落で浜は5集落の合計12集落からなっている。 岡の住民は主として農業に従事し、米・柑橘類・ニンニク・甘蔗栽培をなし、浜は漁業に従事し、沿岸・近海漁業によりタイ・ハマチ・イワシ・イカ・アワビ・サザエなどの漁獲量が多い。 名護屋は旧鎮西町の行政・経済の中心地であり、各種の行政機関や金融機関が集まっている。 今回訪ねたのは浜地域で、家屋が軒や屋根を接して密集している典型的な漁業集落であった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和57年 日本の地名佐賀県 平凡社 下中邦彦 1980年 |
鎮西町名護屋の町並 |
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