神崎市神崎は佐賀県の東部、佐賀平野のほぼ中央に位置する。 櫛田宮の門前町として形成していた所が、江戸期に長崎街道の神崎宿となり発達をみた。 二日町・四日町・五日町・七日町・八日町・九日町など、かって市の立っていた名残の町名も残りっている。宿内で長崎街道は五ヶ所の曲がり角を持つ鉤形で細長く延びた町で、鉤形にしたのは城下町に倣ったようで、戦時に通し矢による損害を避けるためと思われる。 鎖国体制の中で、幕府の唯一の貿易港であった長崎には、海外から人物・知識・文化が入り、長崎街道は文明ロードと云われていた。 神崎宿の中心は四日町で藩営の御茶屋が置かれていて、藩主や幕府の巡見使や長崎奉行らの宿所となった。一般には本陣と呼ばれる民間の宿泊施設に泊まるのが普通であるが、佐賀藩では藩営のお茶屋を宿泊施設にあて、その他のものは脇本陣にあてられた浄光寺や真光寺や長崎屋が役目を勤めた。 お茶屋があった四日町は現在でも官公庁・金融機関・商店街があり、町の行政・経済の中心地である。 神崎素麺で名高い製麺業は最盛期には数百軒が軒を並べたというが、昭和初期の機械化に立ち遅れて今では少数になってしまった。 天保期の家数は385。明治11年の家数429・人数1,846とある。明治初年には東町・五日町・八日町・権現堂・土井上町が神崎一丁目、東水馬場・西水馬場・辻町が神崎二丁目、横町・四日町・七日町・二日町が神崎三丁目、九日町・西新町・挽木町が神崎四丁目となった。 今に残る古い町並みは、伝統的な妻入りの建物が点在するも連なって町並みになっていないのが残念である。白漆喰に塗込められた妻入りの建物・茅葺きの民家も混じった長崎街道沿いの宿場町の名残は各所に残るが、古い町並みと云えるほどの伝統的様式の民家の町並みは見られなかった。 佐賀県の歴史散歩 山川出版社 佐賀県の歴史散歩編集委員会 1995年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和57年 佐賀県の地名 平凡社 下中邦彦 1980年 |
神崎の町並み |
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