大隈は秋月街道(秋月〜田川)(国道322号線)と日田街道(飯塚〜日田)(国道211号線)が交差する交通の要衝で、筑前21宿の一つで「人馬の通行しけき事、他方にことなり」(続風土記)と云われた。 江戸期を通じて福岡藩領、村高は「慶長国絵図」では511石余とある。元禄5年(1692)人数620。寛政期(1789〜1801)の家数140・人数744とあり、酒屋の矢野家が本陣として利用された。 長崎街道筑前6宿が開設されるまでは、久留米藩、柳川藩、筑前佐賀藩などが、参勤交代にこの秋月街道を使用する幹線であった。中世以来利用された道が旧八丁越えといい、寛永7年(1630)秋月藩主黒田長興によって秋月城下の武家地を通らない道が造られた。この道を新八丁といい、以後この新八丁越えが利用された。 しかし明治に入り規制が緩和されると、新八丁越えは利用されなくなり、旧八丁越えが今に残っている。新八丁越えは旧八丁越えよりも急坂で距離も長かった。 町を流れる遠賀川は大隈川・嘉麻川とも呼ばれ、慶応期(1865〜68)には船場小屋もあり、後にはこの地方の年貢米の積出しが行われていた。 明治に入りこの地でも石炭の鉱山開発が進んで、人口も急増した。平和産業の基盤として石炭の増産が図られたが、昭和35年頃から始まったエネルギー革命により、相次いで鉱山が閉山していった。しかし他の町に比べ鉱山が小規模だったため、人口の減少は少なかった。 今、古い町並みとしてはあまり残っていない。辛うじて国道211号線沿いの旧日田街道沿いに展開している。明治後期から昭和初期にかけて建てられた建物が伝統的な建築様式のようだ。石炭で賑わった頃の建物だろう。中でも造り酒屋さんの黒漆喰塗込めの居蔵造りの建物が圧巻で、この町並の一番の景観として君臨しているようだった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和63年 福岡県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 2004年 |
大隅町の町並 |
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