鹿児島市桜島赤生原町の町並
桜島赤生原町・桜島小池町
地図


桜島赤生原町の町並

 鹿児島市桜島赤生原町は鹿児島湾北部、鹿児島市街から海を隔てた桜島の西部に位置する小さな集落である。
桜島の江戸期は鹿児島薩摩藩直轄領外城の一つで、向島郷と称して、横山・小池・赤生原・武・藤野・古里・湯・西道などなど19ヶ村から成っていた。向島を桜島と呼ぶようになったのは、元禄11年(1698)ともいうが、寛延2年(1749)、天明元年(1781)の各噴火の時も向島の名称が見える。安永7年(1778)の「三州御治世要覧」にも向之島・向島郷、「三国名勝図会」では向島郷を桜島の名称と共に併記している。地頭仮屋は横山村に置かれていた。
桜島郷は「地理纂考」によると、高2,717石余、家数2,125、人数1万1,429、うち士族2,772、卒31、平民8,626。
明治22年に桜島郷が西桜島と東桜島に分かれ、横山・赤水・小池・赤生原・武・藤野など10ヶ村は西桜島村に、脇・湯之・野尻・古里などの8ヶ村は東桜島村となった。そして昭和48年に西桜島村は桜島町となる。
桜島の噴火は記録によると30数回を数え、大きなものでは文明噴火・安永噴火・大正噴火が揚げられる。それぞれの噴火で溶岩流と火山灰により大きな被害をうけ、その度に地形が変ったり、集落ごと埋没したりを繰り返している。大正噴火により桜島と大隅半島が地続きになるなど大きく地形も変わっている。
今回訪ねた桜島赤生原町は向島郷、西桜島村、桜島町、鹿児島市と所属の名称が代っている。
村高は「天保郷帳」では139石余、「三州御治世要覧」では延亨(1744〜48)頃の高225石余、「旧高旧領」では265石余。文化7年(1810)の百姓家数61・郷士家数10(九州東海辺沿海村順)。大正噴火では大噴火による火山灰が4尺2寸に達し、軽石のため歩行することが困難を極め、集落の全戸数169戸は全滅し、耕地も耕作不可能になってしまった。
また、桜島小池町の所属の変化は赤生原町と同じ。村高は「三州御治世要覧」では延亨(1744〜48)頃の高208石余、「旧高旧領」では203石余。文化7年(1810)の百姓家数74(九州東海辺沿海村順)。大正噴火による溶岩で、畑地82町歩が埋没、集落の全戸数222戸は焼失または溶岩による埋没で全滅した。
今、町並を歩いても溶岩以外大正噴火の影響は見られない。集落が全滅する被害に合っているのに、100年もすればこの様に復旧復興するのは凄い力だと思う。ただ、今でも小噴火を繰り返し火山灰を噴出しているので、風の吹く日に集落を歩いたため、口の中がジャリジャリという感じになった。
町並指数  20  
参考文献                             
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和58年
   鹿児島県の地名  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  1998年  


桜島赤生原町の町並

桜島赤生原町の町並

桜島赤生原町の町並

桜島赤生原町の町並

桜島赤生原町の町並

桜島小池町の町並

桜島小池町の町並
 古い町並みへ戻る