伊是名村は沖縄本島の北端、辺戸岬の西方約30km、沖縄本島本部半島の北方約22kmに位置する伊是名島を主島とする自治体である。 伊是名島は琉球王国時代の広域地名であるが、江戸期には伊平屋島と称される行政区域に含まれていた時期もある。 伊是名島の石高は、寛永6年(1666)(琉球王国康煕5年(1666))696石余、同13年(1673)750石余、享保12年(1727)777石余。「高究帳」では伊是那島とみえ、石高750石余のうち田628石余・畑121石余。「絵図郷村帳」でも伊是那島と記し、伊是名・仲田・諸見・勢理客の4ヶ村と屋ノ下島など3島が見える。 その中の勢理客村は江戸はじめは伊是名島、後に伊平屋島に属していた。「高究帳」では伊是名島せづかく村とみえ、石高173石余、うち田145石余・畑28石余。「由来記」には伊平屋島勢理客村と記す。 勢理客村の家数・人数は明治13年104・711、明治36年119・777とある。 今の伊是名村が成立したのは昭和14年で、伊平屋村から分離した伊是名・仲田・諸見・勢理客の4字をもって伊是名村が誕生した。 そして今回訪ねたのは伊是名村勢理客集落である。位置を時計で云うと、丸い形をした伊是名島の9時に位置する勢理客集落は各家にテーブルサンゴの石垣が積まれていたが、同じ伊是名村でも伊是名集落に比べて、テーブルサンゴの石垣が少ないようで、フクギの並木が殆ど無く、明るく開けた感じの集落であった。 集落の周囲は広大な砂糖きび畑となっていて、その先所々で海の水平線が見える風景はなかなか のものであった。地元では誰も勢理客(せりきゃく)と云わず、「じっちゃく」と云うが、郵便番号などでは「せりきゃく」となっている。「じっちゃく」は方言とこことだった。 先にも書いたが、伊是名島にサンゴの石垣が多いのは、ハブが生息していない為らしい。サンゴの石垣はハブの棲み家となり易いので、ハブが生息している所ではサンゴの石垣を壊してコンクリートブロック塀にされてしまうようで、サンゴ石垣が残らないとのことだった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和61年 |
勢理客の町並 |
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