石垣市大川は石垣島南西部の石垣市街地の中心部を占める。 大川村辺りは「両島絵図帳」では石垣間切であり、崇禎元年(1628)の三間切制移行でも石垣間切に属したが、乾隆33年(1769)の間切の改正により、大浜間切に属し以後近代にいたるまで変更は無かった。 乾隆15年(1750)、人数2,110人の登野城村は、下知にも差し支えるのことから、乾隆22年(1757)分村が認められ、西半分の1,050人を分けて大川村として独立させた。乾隆25年(1760)の人数は1,304人とある。 乾隆36年(1772)の明和大津波で、1,290人のうち412人が溺死し、家174軒が流出したが、田畑の被害は無かった。津波被害を避けるため同年従来の場所から北方3kmの高台地に移転を開始したが、不便が多く同39年(1775)元の場所に戻った。 明治10年代に大川村の海岸近くに県外商人の店が次第に増え、後の銀座通り・中央通りへと発展した。家数・人数は明治13年245・1,203、明治36年315・1,598となる。 大川は石垣市街を構成する中心地である。そのため多くの家屋が建て替えられたが、今尚多くの沖縄らしい赤瓦の寄棟建築の家が残っている。その代表例は旧宮良殿内で国の重要文化財に指定されている建物。市街地のため沖縄らしい建物が連なって町並を造っているとは言えないが、赤い瓦の寄棟住宅が並んでいる所は多く見られる。琉球石灰岩の石垣も残っているし、目隠しのヒンプンも健在だ。防風林のフクギも見られるところがあるし、市街地でありながら結構多くの沖縄らしさが見られる町である。 沖縄本島の首里城・那覇辺りも太平洋戦争の地上戦が無かったら、この様な状態で町並が残っていただろうと、石垣島を訪ねて那覇市辺りの古い町並を思い浮かべた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典、編纂委員会 昭和61年 日本の地名沖縄県 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 2002年 沖縄県の歴史散歩 山川出版社 沖縄歴史研究会 1996年 |
大川の民家(宮良殿内) |
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大川の石垣 |
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