石垣市大浜は石垣島南部、4ッの集落から構成されているが、一番大きな大浜集落は国道390号線に沿っていて、旧大浜町の政治・経済の中心地であった。 近世を通じて大浜間切のうち、「両島絵図帳」では石高803石余で、八重山島中で最も高い。順治8年(1651)の人数は平得村と合わせて242人。乾隆2年(1737)の調査では人数1,061人、「風気」はよく、田畑広く居住しやすいが、石垣村に近く臨時の公事があれば働かされるため、百姓は難儀をするという。 乾隆36年(1772)の明和大津波で村は跡かたも無く流出して壊滅した。その被害は人数1,402人のうち1,287人が溺死し、家210軒・番所・役人詰所なども流失し、牛馬100頭も溺死した。畑541町余のうち377町余・田12町余のうち9町余は土地が流出して耕作不能となった。 同年波照間島より419人寄百姓し、元の集落から北西3町余の田原という所で村を再建した。しかし津波後の再建は困難を極めた。またいつの頃か不明だが集落は田原から元の場所に戻ってしまった。 家数・人数は明治13年104・628、明治36年160・944とある。 大浜集落は国道390号線の両側に展開する大きな集落である。石垣市街に近いので近郊住宅地の様相を呈しているが、まだまだ赤瓦の沖縄らしい寄棟の平屋住宅が点在する。 明和大津波後に町割りが行われたので、碁盤目状に規則正しく町割りされている。 防風林のフクギも、琉球石灰岩の石垣も、目隠しのヒンプンも、魔よけのシーサーも少なくなっているのは残念であるが、赤瓦を漆喰で固めた屋根の沖縄の家が多く見られたので、まあ仕方ないか??という町並探訪であった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典、編纂委員会 昭和61年 日本の地名沖縄県 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 2002年 |
大浜の集会所? |
大浜の民家 |
大浜の民家 |
大浜の民家 |
大浜の民家 |
大浜の民家 |
大浜の民家 |
大浜の石垣 |
大浜の民家 |
大浜の民家 |