石垣市宮良は石垣島南東部、宮良湾に臨む。 宮良間切は「両島絵図帳」では宮良・白保の両村から成り、崇禎元年(1628)の三間切制移行で、石垣島の宮良村・石垣村・川平村・仲筋村・波照間島の波照間村・平田村・あらんど村・黒島の保里村の八ヶ村となる。 宮良村は宮良間切に属し、「両島絵図帳」では石高199石余。順治8年(1651)の人数は248人で、康煕52年(1713)に白保村が独立した。乾隆2年(1737)の調査では人数760で「風気」はよく、田畑も広く住みやすいが、石垣村に近く臨時の公事があれば働かされて、百姓は難儀するという。 集落は宮良川河口左岸の崖下にあったが、乾隆36年(1772)の明和大津波で、人口1,221人のうち1,050人が溺れ死に、家149軒・牛馬107頭が流され、畑216町余・田1町余が耕作不能になってしまった。 生き残ったものだけでは村立てできず、小浜島から男女320名の寄百姓を加えて、宮良川左岸の旧集落より北西約2kmにある漢田に村立てし、その後、現在地に移転した。 家数・人数は明治13年80・383、明治36年102・611とある。昭和45年では世帯数270・人口1,383とある。 宮良集落の殆どは国道390号線の山側で展開している。琉球石灰岩の石垣や防風のための樹木であるフクギも、目隠しのヒンプンも少ない集落であった。建て替えられた家屋が多く、沖縄らしさがどんどん減少していく過程を見ているような集落である。 それでも赤瓦の漆喰止めの屋根の家屋が多く残っていて、沖縄の集落だなあと思える。琉球石灰岩を積んだ石垣、中には琉球石灰岩をブロック状にカットして積んだ石垣もある。集落内は碁盤目状に規則正しく町割りされているのは、自然発生的にここに人が住み着いたのでなく、明和大津波後の町割で作られた集落と云うことが理解できるだろう。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典、編纂委員会 昭和61年 日本の地名沖縄県 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 2002年 |
宮良の民家 |
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宮良の石垣 |
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宮良の民家 |
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