伊万里は天然の良港、伊万里湾を擁することから、江戸時代には有田皿山などで産する陶磁器の唯一の積出港として繁栄した。 江戸時代になり、伊万里は鍋島佐賀藩領となった。しかしこの地方は鍋島佐賀藩と唐津藩領に分けられて複雑な行政になったが、大川内は鍋島藩のままで明治維新を向えている。 江戸時代、伊万里川河口は伊万里津と呼ばれ、周辺の産地から大量の焼物が集まり、川の両岸や街道沿いには陶器商人の店や蔵が建ち並んでいた。有田皿山の陶磁器については、寛永初年(1624〜30)頃、交易が伊万里津の豪商 東島徳左衛門によって活発になり、酒井田柿右衛門の赤絵は東島の手によって長崎の出島から海外に輸出された。国内へは寛文初年(1661〜65)から紀州商人によって大々的に行われた。 陶磁器の移出が活発になると、元禄年間(1688〜1704)には藩が伊万里心遣役を設け、有田皿山代官と密接な連絡をとって密輸販売などの取り締まりと秩序の維持に努めた。 文化年間(1804〜18)には国内販売の取り締まり統一のために伊万里市場でのみ取引することに決定している。 天保6年(1835)の伊万里港積出額は大坂へ3万6000俵、伊勢へ1万6000俵、備前へ1万3000俵、江戸を含む関八州へは11万俵とあり、全国で31万俵にのぼっている。 一方、有田南川原山にあった鍋島佐賀藩御用細工窯を、延宝3年(1675)に大川内山に移転しているが、これは有田焼きの技術の秘密保持に格好の地であったのと同時に、青磁釉薬の原料を出土したことによる。そして廃藩置県までの間、色鍋島など御用品を焼いた。大川内山には御用登窯跡や御細工屋敷跡などの遺蹟が見られる。 入口には番所(関所)が置かれて、人の出入を厳しく監視したのは、陶磁器の技術を秘すためであり、他に焼物・焼物土の出入、抜荷などを厳しく取り締まった。特に赤絵付けの技法は一子相伝で、絵具調合の秘密厳守、居住地まで厳しく規制された。また、藩の統制は職人にも及び、領外は勿論、藩内においても技術指導が禁じられていた。 今、大川内山を歩くと、前面に奇岩が切り立ち、いかにも“秘窯の里”といった景観が展開する。 佐賀県の歴史散歩 山川出版社 佐賀県の歴史散歩編集委員会 1995年 九州小さな町小さな旅 山と渓谷社 川崎吉光 2000年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 |
中国の山水画のような風景 |
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