壱岐市勝本浦は長崎県の北部、壱岐島の北西部に位置する。 江戸期は平戸藩領、壱岐八浦の一つ。豊臣秀吉の朝鮮出兵にあたり、勝本城が築かれ、渡海する軍勢の中継基地、食糧の供給地として重要な役割を果たした。 慶長12年(1607)朝鮮通信使が勝本浦に寄港、その後明和元年(1764)まで11回の朝鮮通信使の寄港が続いた。 壱岐での鯨漁の中心は勝本浦で大きく栄え、元禄〜享保年間(1688〜1736)が最盛期であった。 可須村内の勝本浦であるが、在方には属さず、平戸藩浦掛の支配を受け、村高の記載が無いが、「元禄郷帳」には勝本村と朱書きされている。「壱岐国続風土記」によると、寛政10年(1798)の家数274・人数1,619、船数は大船10・小船10・伝通船23・伝間船24……とある。弘化2年(1845)の「壱岐国惣図打添」では家数391・人数2,060、船72(うち伝通船57)。文久元年(1861)の「壱岐名勝図誌」によると家数419・人数2,242、船数77(高船17・伝通船60)。「天保郷帳」「旧高旧領」には村名が見えず、可須村のうちとされている。 今、勝本浦を訪ねると、朝市で賑わう。観光客も混じっての賑わいと聞いたが、訪ねた当日は雨がひどく、道に沿って出されていた店も、途中から店じまいされていた。在方の野菜や果物と浦方の魚介類の物々交換から始まった朝市だが、今は観光名所になっている。 この勝本浦の集落は海に沿った旧道の一本道の両側に展開している、片側は海(最近道路が海沿いに走るが)反対側は急斜面の崖で狭小な土地が続く。集落内は比較的活気がある漁村集落。七里曽根を主な漁場とする壱岐島最大の沿岸漁業基地で、ブリ・イカ漁が盛んであるが、一部は日本海から北海道沖まで出漁しているようだ。 古い町並は旧道の両側で、海岸の湾曲に沿って延々と続く町並である。一番の見どころは勝本郵便局近くの、藤嶋家住宅と呼ばれる辺りの町並だろう。殆どが切妻造り2階建て平入りの家屋が軒を接して連なる町並だった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和62年 長崎県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 2001年 長崎県の歴史散歩 山川出版社 長崎県高等学校教育研究会 1996年 |
勝本浦の町並 |
勝本浦の町並 |
勝本浦の町並 |
勝本浦の町並 |
勝本浦の町並(正面の家が藤嶋家住宅) |
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