幸袋は遠賀川左岸に位置し、白旗山麓から集落が広がる。 長崎街道沿いの街村で、遠賀川水運の船場として発展し、幕末には船庄屋も置かれた。幸袋村は元禄5年(1692)には家数59・人数313。寛政期(1789〜1801)の家数52・人数232、川船が8艘とある。そして街道沿いは町立てされていたようだ。 この地では江戸中期から石炭が燃料として使用されてきたが、幕末になって製塩・製鉄で石炭が利用され飛躍的に出炭量が増加し、藩の財政を潤していた。 明治4年に鉱山開放が布告されと、石炭は自由に採掘できるようになった。この地でも小規模な露天掘りの小炭鉱が増加した。 露天掘りの時代は終わり、深部採炭が始まると、湧水が問題で、資金と機械の調達に成功した人たちの中から後世の炭鉱王が輩出した。麻生太吉・松本潜・安川敬一郎などは続けざまにこの地で炭鉱を開発していった。 その後、採炭機械が開発され、導入されるようになると、石炭は量産化され、石炭の輸送や市場の開拓のため明治13年には筑豊石炭鉱業組合が設立され、明治27年には石炭輸送のため筑豊興業鉄道が小竹駅〜飯塚駅間で開通した。 明治29年炭鉱機械製作のため、伊藤伝右衛門・麻生太吉・安川敬一郎などの炭鉱主が幸袋工作所を設立した。 一方国・県は零細企業の乱掘を防ぐため、規模の拡大を図り、大資本の参入を促し、三菱・住友などが参入してきた。 その後、石炭業は好況・不況を繰り返してきた。第2次太平洋戦争の敗戦後、朝鮮戦争で一時好況に転じたが、その後のエネルギー革命によって、昭和30年代後半から昭和40年代前半で殆どの炭鉱が閉山を余儀なくされた。 古い町並みは旧長崎街道(国道200号線)と直角に交差する道筋に展開している。長崎街道に沿って展開していない。旧長崎街道と直交し、遠賀川に向かう道筋に展開している。寛政期(1789〜1801)の家数52から察するに、江戸後期に形成された町並みでなく、明治に入って石炭採掘が本格的に始まり、小炭鉱主が出現してから形成された町並みのようだ。 それを象徴するように、旧長崎街道に直交した道筋に巨大な邸宅を構えた旧伊藤伝右衛門家がある。開発した炭鉱を国の政策で三菱や住友に売却した炭鉱主の旧邸宅である。 幸袋工作所の創設者の一人でもある。 町並みを構成する家屋は殆どが明治中期〜後期位に建築された建物のようで、妻入り入母屋造り甲造りで白漆喰を塗込めた居蔵造りの町並みだった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和63年 福岡県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 2004年 |
幸袋の町並 |
幸袋の町並 |
幸袋の旧伊藤伝右衛門家 |
幸袋の旧伊藤伝右衛門家 |
幸袋の町並 |
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幸袋の町並 |
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