神武天皇東征の際の出発湊であるとの伝説を持ち、日本海軍発祥の地としての記念碑が耳川河口に建っている。古くからの廻船業が盛んだった湊町で,水陸交通の要衝として発達してきた。 近世の美々津は高鍋藩領で、地籍上では上別府村となっているが、高鍋藩の行政上では美々津港を中心とする港町として機能し、番代と代官が置かれていた。高鍋藩の米蔵や出入の船などを監視する津口番所が設置されていた。 美々津港は耳川上流から運ばれてきた物資(木材や木炭)の集散所として、また、高鍋藩内からの年貢米の積出港として、藩御用の木材船や、大坂方面からの船も出入していた。また高鍋藩主や鹿児島藩主が参勤交代時に使用する御仮屋が建てられていた。 また美々津は火災に弱く、度々大火に見舞われている。宝暦4年(1707)に291軒、享保7年(1722)357軒、享保14年(1729)123軒、宝暦8年(1758)192軒、安永9年(1780)336軒、文化元年(1804)148軒、文化8年(1811)155軒と火災の多いところで、家屋は漆喰の土蔵造りが多く建てられた。「日向地誌」によると美々津町(耳川南岸より石並町までの南北6町・東西1町半)の家数398とある。 「美々津千軒」と言われた当時の面影が色濃く残り、切り妻造り妻入りの商家建物が連なる。江戸時代の度重なる火災のためか、海岸にありながら白漆喰塗り込めの建物が多く、建築様式も瀬戸内海から大坂辺りの建て方に近い。これも木材・米を大坂に運んでいた交易の影響だろうと思う。虫籠窓・千本格子・白漆喰壁や通り庭風な土間など、大坂から瀬戸内の建て方とホントによく似ている。 商家の屋号には備後屋・伊勢屋・大坂屋・河内屋・播磨屋・近江屋など関西から瀬戸内の国名を名乗ったものが多く、活発な交流の一端を物語っている。 神武天皇東征に関する伝説は多く、有名なものに「おきよ祭り」がある。下の町並写真の中で、七夕飾りのような笹竹に飾りのついたのがあるが、旧盆の8月1日の早朝に子供達が起きよ起きよと町内の人を起して廻るお祭りは、神武天皇東征出発が早くなり、町民が起して廻った事に由来するようだ。 宮崎県の歴史散歩 山川出版社 宮崎県高等学校社会科研究会 1990年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和61 宮崎県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1997年 歴史の町並再発見 葦書房 讀賣新聞西部本社1993年 |
美々津の町並 |
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