人吉市鍛冶屋町他の町並
鍛治屋町・大工町・七日町・下新町
地図


鍛冶屋町の町並

 人吉市の旧人吉城下は、人吉盆地の西部、旧城下町の中央を球磨川中流部が東から西に流れ、北から万江川・山田川が、南からは胸川・鳩胸川・永野川などが合流する。
近世城下町の構成は球磨川によって南北に大きく二分され、城のある南側は武家町、北側は町人町に区分されていた。はじめ青井池の南に二日町・七日町・川原町の3町があり、合わせて人吉と称されていた。
近世初期の人吉城下は文禄3年(1594)に、町人町として新に九日町・七日町・五日町・二日町・鍛冶屋町・大工町・紺屋町・唐人町の町立てが行われている。そして寛永11年(1634)に出水町・細工町が、同12年に田町が、文化年間(1804〜18)には新町が形成されている。
寛政元年(1789)の私領御巡見教令によると、町人町は町数9筋とされ696(五日町89・九日町97・七日町85・二日町71・紺屋町139・鍛冶屋町66・大工町55・新町38・田町56・)、人数は2,749、問屋17(川舟問屋2・他領川舟問屋4・商売問屋6・日雇問屋2・杣子問屋3)とある。
人吉への交通路として、参勤交代や物資の輸送に一番重く用いられたのは、球磨川に沿って一勝地(現球磨村)・告(現芦北町)を経由して佐敷に出て八代・熊本に出るルートだが、当初球磨川には大石があったため川舟交通は出来なかった。寛文2年(1662)当町町人の林藤左衛門によって大石割除工事が成功し、寛文5年(1665)には八代まで川舟運航の道が開け、参勤交代ばかりでなく物資輸送にも貢献し、人吉町の繁栄の基となった。
今回訪ねた鍛冶屋町や五日町・七日町などは城下町形成期からの町である。名前の通り鍛冶屋町には鍛冶職人が、大工町には大工が集住していたし、五日町は七日町などには各種商人が住んでいたいた所。
鍛冶屋町は熊本県も人吉市も観光に力を入れている所らしく、中国人観光客がバスを連ねてやってきて闊歩していた。何を目的に訪ねたのか。古い町並としてはお茶販売の立山商店の建物位しかない。でも多くの言葉の通じない観光客はお茶を買っていました。訪ねた当日は地元の消防団が、消防車を使って溝の掃除の奉仕作業に精を出しておられ、話しかけると終わったらビールが飲めるのが楽しみと仰っていました。そして五日町・七日町にも殆ど伝統的な家屋が残っていなかったのは残念。下新町に大きな門構えの古い形式の家屋が残っていたが、何時取り壊されても不思議でない状態だったのには心痛んだ。
町並み指数 30 
参考文献
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和62年
   熊本県の地名  平凡社  下中邦彦  1985年


大工町の町並

鍛冶屋町の町並

鍛冶屋町の町並

鍛冶屋町の町並

鍛冶屋町の町並

五日町の町並

七日町の町並

七日町の町並

下新町の町並

下新町の町並
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