豆田町は隈町と併せ日田両町と称して日田郡にとどまらず九州経済の中心の一つであった。しかし正式には豆田は中城村、隈町は竹田村の枝郷として扱われているが、実際には豆田町・隈町として独立していた町であった。 豆田町は元和2年(1616)日田藩石川領、寛永10年(1633)から幕府領、天和2年(1682)日田藩松平領、貞享3年(1686)からは幕府領となり明治を迎える。 石川氏が入部したときに城を永山城、町を豆田町と改めたという。寛永から寛文(1624〜73)の頃草野家・広瀬家などの有力商人が筑後や筑前地方から移住したと言われ、このころから城下町・陣屋町としての形態が整った。そして幕府領となってからは、郡代・代官の陣屋町として大いに発展した。 天明8年(1788)には家数192・人数1,036。天保9年(1838)には家数193・人数1,123。元文4年(1739)の軒別渡世家業書上帳によると、家数220のうち商業96・手工業53・農業33・手間賃稼28・他10とあり、商工業の割合が高いのがわかる。油屋・豆腐屋・魚屋・塩屋・菓子屋・紙屋・米屋・古着屋・味噌屋・醤油屋・炭屋・紺屋などあらゆる職種があった。 隈町は豆田町と比べると玖珠川・大山川流域を後背地とする在郷町的性格が強い町であった。石川氏が永山城に入部するまでは、隈町が日田郡の政治的中心地であったが、以後中心地は豆田町に移っていった。天明8年(1788)の町明細帳によると家数242・人数1,120。諸商売があり酒造屋13をはじめとして医師8・大工6・小間物屋・桶屋・質屋などいろんな職業があった。 さて、日田で特異なのは「日田金」と称される金融形態である。多くの豪商のなかに掛屋と称する商人がおり「日田金」とよばれる金融資本を大名や九州一円の商人に広く貸付た。 「日田金」は日田幕府領の郡代・代官の保護を受けた掛屋商人による商業貸付資本のことで、 大名貸しをはじめとして各種商人に貸付ける在郷貸しには借用証文には藩役人の奥書も義務付けた。 日田の掛屋は千原家・草野家・広瀬家・手島家・山田家・森家などが著名である・広瀬家では九州34藩中20藩に貸付け、千原家では11藩に貸付を行っている。「日田金」全体の200万両のうち100万両は大名貸しであった。 貞享3年(1686)幕府領(天領)となった豊後の日田には豊前・豊後・筑前・肥前・肥後・日向などの天領を支配する代官所が設置され、宝暦9年(1759)には九州の天領を統括する西国郡代に昇格するなど、日田は九州の政治経済の中心となった。そのため各地から日田に向う街道は日田街道とよばれ幕府役人や代官所に所用のある諸藩士の往来が多く、日田の繁栄を支えた。 平成16年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、生きた町並の保存が図られている。町並は妻壁から破風までナマコ壁の草野本家から御幸橋までの約300mで展開する。御幸通りやその界隈には草野本家・広瀬家をはじめとして旧豆田検番所や談義所嶋屋などの古い建物を利用した飲食店やそば屋や土産物屋などが連なっていた。 町並メインの御幸通りでは町並の統一感はなく、平入りの建物や妻入りの建物が入り混じって町並を構成していたが、漆喰で塗り込められた町並は、やはり伝統ある町並みの貫禄を見せ付けていた。隈町の古い町並は日田温泉街に飲み込まれてしまっているが、所々に伝統的な様式の商家の建物が点在していた。 歴史の町並み再発見 葦書房 読売新聞西部本社 1993年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和63年 大分県の地名 大分県 平凡社 平凡社地方資料センター 1995年 別冊太陽 日本の町並U 平凡社 湯原公浩 2003年 |
豆田町の町並 |
豆田町の町並 |
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隈町の町並 |
隈町にある旧大分銀行日田支店 今は黎明館(隈まちづくりセンター) |