平戸は遣唐使船の航路であって、古代からの海上交通の要衝であった。鎌倉期以降も、中国へ往来する船の寄港地として栄西や聖一国師が訪れた。室町時代になると、日明貿易の寄港地となった。 平戸は古代から遣唐使船の航路であり、鎌倉期から室町期になっても、中国へ往来する船の寄港地となっていた。この地は鎌倉時代から松浦氏の支配下にあり、領主の松浦隆信は密貿易を保護したので明船が盛んに出入し、唐・南蛮の珍物が集まり、京・堺の商人も集まって「西の都」と称されるほどになっていた。 平戸城は亀岡城ともいい、松浦氏の居城で、城は30代藩主松浦棟が元禄16年(1703)に建てたものである。亀岡の丘頂部を占める本丸を中心に、この外周に二郭・三郭・外郭を配置し、南端の半島頚部に大手門、西側の鏡川河口に幸橋をかけて城下と結んだ。 明治維新後建物は全部取り壊されたが、藩主は松浦氏から代わることなく明治維新を向えている。 江戸時代に入り平戸藩主松浦鎮信は徹底的なキリシタン嫌いであり、領内のキリシタンや宣教師の弾圧をした。しかし莫大な利益をもたらす対外貿易には積極的であった。このためポルトガルと対抗しつつ、東洋貿易にオランダやイギリスは進出してきた。オランダが慶長14年(1609)に平戸に商館を開設した。イギリスも同18年(1613)に商館を開き、平戸は対ヨーロッパ貿易の窓口となった。この結果藩主の収入は大幅に増加し、商館から大きな利益、大きな贈り物、利子なしの借入金を得ているだけでなく、上方から来る商人の贈り物で、藩主の領地は非常に豊になり、人口も増えた。藩は富裕な商人を擁しており、彼らは米・大麦・豆などをよそより高くオランダ人やイギリス人に売っている。全ては藩主の思うままに値段が決められていた。 しかし、このような平戸港の繁栄の時代も永続きしなかった。江戸幕府の鎖国令は次第に強化され、ついに寛永18年(1641)オランダ商館は長崎出島に移転させられ、貿易港平戸の歴史は閉じられたのである。 オランダ商館跡は石塀、井戸、及び倉庫の壁・埠頭の一部が残っており、市民や観光客から親しまれている。 藩の石高は慶長9年(1604)には6万1700石であったが、この時期は外国貿易の莫大な利益があり、富裕な藩であった。しかし、鎖国完成以後、貿易による利益はなくなり、藩は農業主義に徹し、新田を開くことに専念している。藩士は千数百人程度といわれ、廃藩時の領内の戸数は3万1991戸、人口は14万8507人であった。 今、城下町時代の町並みは殆ど残って居らないが、職人町には宅地割や石積みの塀が残っている。職人町は近世城下町が形成された江戸時代から明治にかけて、大工、桶屋、鍛冶屋などの職人が集住していたところである。江戸時代からの道路、水路、宅地割がはっきり残されていて、まだ昔の面影を偲ばせている。 全国に城下町はいくらでもある。そしてその多くに武家屋敷や寺町に集中している寺院、豪商の家などは比較的良く残っている。しかしながら職人町が平戸ほど整然と残っている城下町は全国的に見ても珍しい。大工町・鍛冶屋町・紺屋町などの名称は多く残っていても、昔ながらの道路や水路、宅地割が残っていることは殆どない。 職人町を歩くと車1台がやっと通れる程の狭い南北の道路は、かっては石畳の道であったそうだが、今はアスファルト舗装されていて味気ないものであるが、それより更に細い東西の路地は今でも石畳が残っている。 歴史の町並み再発見 葦書房 読売新聞西部本社遍 1993年 長崎県の歴史散歩 山川出版社 長崎県高等学校教育研究会 1996年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 |
職人町の町並 |
職人町の町並み 緑に見えているのは、生垣でなく石を積み上げた石垣に つる性の植物が生い茂っているもの |
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職人町の町並み 東西の路地は石畳である |
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