平戸市の中心市街地は平戸島の北部に位置していて、昭和52年の平戸大橋の開通によって北松浦郡田平町と結ばれた。 天正15年(1587)、豊臣秀吉の九州仕置によって、平戸は松浦隆信の領地となり、近世大名として平戸城下を拡大、領内の整備を進めた。跡を継いだ松浦鎮信はキリシタンの弾圧と海外交易を積極的に行った。慶長14年(1609)にはオランダ商館、慶長18年(1613)にはイギリス商館の開設を認めるなど、ヨーロッパ貿易の窓口となる。その結果莫大な利益が藩や藩主にもたらされた。 オランダ商館やイギリス商館は附近の民家跡に倉庫や住宅を新築し、本館を増築するなど機能を強化していった。イギリスはオランダと貿易競争で破れて、元和9年(1623)に撤退していった。 この様な藩に膨大な利益をもたらす平戸港の繁栄も長続きはしなかった。幕府の鎖国令はますます強化され、ついに寛永18年(1641)オランダ商館は長崎出島に移転し、貿易港平戸の歴史は終止符を打った。 それ以後平戸藩は農業政策に力を入れ、新田開発に取り組んだ。 今回訪ねた平戸市崎方町は江戸期には平戸城下のうち平田湾に面して平戸城の北西に位置する町人町であった。 尚、崎方町は大福村・祝村・常盤村の3ヶ村の総称である。大福村は平戸港北岸の東端、祝町は平戸港北岸の中程、常盤町は平戸港北岸の西寄りに位置していた。オランダ商館は大福町の大半を占めていて、祝町には魚商売・煎ナマコ下請商・問屋などが多く住んでいた。常盤町は鮪の大網主が海岸沿いに建ち並んでいたが、山手は小間物屋・菓子商・豆腐屋などの小商人密集し、海岸沿いと対照的な構成であった。 今、崎方町辺りの港沿い道から一筋山側の町並みを歩くと、復元されたオランダ商館・オランダ塀・オランダ井戸・松浦史料博物館などを訪ねる観光客相手の土産物屋や飲食店が連なる。どの店も古い家屋に見せた2階建ての新築家屋である。 滋賀県彦根市の夢京橋キャッスルロードほど統一感が無いが、それでもそこそこ古い町並みを演出した町並みが出現していた。 長崎県の歴史散歩 山川出版社 長崎県高等学校教育研究会 1996年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和62年 長崎県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 2001年 歴史の町並み再発見 葦書房 読売新聞西部本社 1993年 九州小さな町小さな旅 山と渓谷社 山と渓谷社大阪支局 2000年 |
崎方町の町並み |
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