平戸市大島村神浦は平戸市街の北約15kmにある的山(あずち)大島の東南部に位置し、平成20年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された漁村集落である。 中世には中国の明への渡海船(遣明船)の警護に大島氏が何度も任じられ、遣明船も大島に寄港している。 江戸時代は平戸藩領であった。 寛永2年(1625)の冬、播磨の横山甚五兵衛が的山大島で捕鯨を始めたという。寛文元年(1661)には大島政務役の井元義信は、平戸藩主松浦鎮信の奨励と神浦人家の引き立てのため港岸一帯の権利を入手して鯨組を経営し始めた。鯨の捌所も造った。享保3年(1718)から4年までは壱岐島で鯨35頭も捕獲し、運上銀47貫も納めている。 近世における捕鯨は藩財政を大きく潤した。鯨組一組の従事者は500〜600名ともいわれ、多くの人々が島に流入し、人口が急増し、山が削られ海が埋め立てられて平地を造り、傾斜地も開発された。 江戸期に盛況を見た和式捕鯨は明治初期に姿を消し、代わって鮪網・一本釣・延縄・定置網の漁場として、岡山、広島、鳥取や伊勢二見(三重県)からの漁船の来航で賑わいを極め、料亭が軒を並べ、県下有数の港町として一世を風靡した。明治後期の一時期は漁家数213戸も数えた。その後も大正期や昭和初期までは相当な賑わいであったが、次第に漁業の近代化に立ち遅れ、遠洋漁業や大型化は伸び悩み、今は沿岸漁業の基地として機能している。 明治17年発行の長崎県北松浦郡村誌によると家数685・人数3,250とある。 今この漁村集落内を歩くと、現代の町並みとは思えない光景が展開する。明治期の建物がそのまま今にチルド保存されたような町並みが目の前にある。細い一本の路地道に軒を接してぎっしりと建ち詰っている。 捕鯨や明治の漁業の盛況時の町並みそのものと思われ、大型の家屋はないが、前面に持ち送りの腕木を備えた家が多く、その意匠もさまざまであることから、装飾の意味合いが強いのだろう。 長崎県の北部、日本海に浮かぶ的山大島。訪ねるのも大変だが、訪ねる値打が十分にある古い町並みだった。 重要伝統的建造物群保存地区に選定されてから、まだ間もないので、あまり整備は進んでいないが、如何にも整備しましたという派手な修復は避けて貰いたいと願う。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和62年 長崎県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 2001年 |
大島村神浦の町並み |
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