日之影町七折(戸川)の町並み
七折(戸川)
地図


七折(戸川)の町並

 戸川集落は小さな集落で、日之影町七折○○○○番地と7000番代の地番が付いている集落。つい最近までは日之影町大字七折小字戸川であったが、今では幾ら探しても昔からの集落名の戸川は無い。
日之影町は宮崎県の北部に位置し町の中央を西から東に五ヶ瀬川が貫流し、街区で北からの日之影川が合流している。
戸川集落は日之影川沿いの七戸ばかりの小さな農村集落である。七折村は江戸時代は延岡藩領で、高千穂18ヶ村の1村で、宮水代官所の管轄下にあった。延岡藩有馬氏治世下、七折村の舟ノ尾に高千穂代官所が設置されたが、寛政9年(1797)に焼失したので、同11年(1799)七折村宮水に移転した。近世を通じて七折村は高千穂郷支配の拠点になっていた。
七折村の元禄11年(1698)万覚帳では竈数387、うち不役23。延享4年(1747)の指出帳控写では竈数367・人数2,378。文政11年(1828)の宗門人別改帳では人数2,389。安政6年(1859)の宗門人別改帳では人数2,733とある。
明治2年の「竈数石高人別調帳」では竈数414・人数2,851とある。明治10年の西南戦争では西郷軍と官軍が交互にこの村で入り交って激しい戦闘が繰り返された。当時の堡塁は現在でも残されている。
さて、石垣集落として最近名を馳せてきている戸川集落の件。
総戸数7戸の小さな集落ですが、どの家にも石垣が備わっている。石垣の上に土蔵が建てられていたり、主屋が建てられていたりする。いやそれ以上に背の高い土留も石垣だし、棚田の縁も石垣である。道に沿った田圃の土留も立派な石垣。
これらの石垣は嘉永年間(1848〜)から安政年間(〜1860)に築かれたと云われている。最も高い石垣は11mの高さにも達する。集落の山手の土留を見たいのですとある家の方に云うと、家の中を通して案内してくれた。なんと温かみのある持て成しと恐縮した。
町並み指数  60  
参考文献
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和61年
   宮崎県の地名  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  1997年
   別冊太陽 日本の町並みU  平凡社  湯原公浩  2003年

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