日出町日出は別府湾の北岸、国東半島の着根部に位置する。 慶長6年(1601)木下延俊の入封で日出藩が成立し、幕末まで約270年間日出藩木下領としての支配が続いた。入封した木下延俊は別府湾を臨む青柳村の崖上に築城したため、当初は「青柳城」と呼ばれていたが、三代藩主木下俊長が「暘谷城」と称した。 海に面した断崖上に本丸を築き、本丸の南東部に三層の天守閣を、本丸の東西に海に面して二の丸を、東の二の丸の更に東に三の丸を配置し、それぞれの北側には外郭(城下町)を置いた。二の丸・三の丸には藩の役所と家臣の屋敷を置き、外郭には家臣と町人を混住させた。 寛政8年頃の村況は家数202・人数1,445とある。明治9年の家数870・人数4,002とあり、家数870のうち農200・漁40・工13・商227・医11とある。 元禄初年頃より若宮八幡社の祭礼に市が立つようになり、商業活動が活発になってきた。紀州から椀売りが、上方からは呉服売り、細物売り、府内からは米売りが来るようになり、日出湊も重要な役割を果たすようになった。日出湊は古くからの良港で交通の要衝であり、問屋をはじめ諸商人が集住していた。杵築(木付)・浦部・周防をはじめとする瀬戸内地方との取引が生まれ、多数の船が出入りするようになり、活況を呈していたが、明治4年の廃藩置県以後、日出港は次第に衰微していった。そして明治44年日豊線が開通し日出駅ができると更に衰微し、今では日出港西部の漁港となっている。 明治11年には郡役所も置かれ、速見郡の中心機能が集中していった。明治12年の家数516・人数2,453とあり、明治初年頃より随分家数・人口とも減少している。 本丸跡は日出小学校に、東二の丸跡は日出中学校に、西二の丸跡は致道館(藩校)が移築されていたり、図書館になったり、武家屋敷が残っている地域で、一番見どころの町並を呈している。 さて、城の北側台地上に形成された町人町は国道10号線・213号線の南側の旧豊前街道より南である。ここは今でも日出町の中心地で町役場や日出警察署・日出郵便局・日出保険所などの行政機関が集まっている。そんな賑わいの中に古い伝統的な家屋や土蔵が散見されるが、古い町並みを形成する程ではなかった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和55年 大分県の地名 平凡社 平凡社地方資料センター 1995年 歴史の町並み再発見 読売新聞西部本社 読売新聞西部本社 1993年 大分県の歴史散歩 山川出版社 大分県高等学校教育研究会社会部会 1997年 別冊太陽 日本の町並みU 平凡社 湯原公浩 2003年 |
日出町の町並 |
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