長崎市高島町端島(軍艦島)の光景  
端島
地図


端島の風景

 長崎港の沖合いの無人島。高島と共に炭鉱の島として知られていた。
端島の石炭を最初に見つけたのは野母村の鍛冶屋勘兵衛で、それ以後は高浜村の者らが採掘して稲佐(現長崎市)で売り歩いていたという。
文化7年(1810)石炭の露頭が発見され、明治3年肥後天草の小山秀之進が採掘をはじめた。
明治6年の出炭は1〜6月は983トン。7〜12月は2,168トンであったという。
明治15年鍋島孫三郎の所有となり、明治23年三菱が端島炭鉱を10万円で買収すると共に海底鉱区25万1000坪を取得、高島炭鉱所の支坑として採炭された。
大正5年に日本最初の高層アパートが完成した。やがて出炭量の増加に伴い、狭い島内の有効利用のため、当時の建築技術の最先端が導入されて、高層アパート群が続々と建設された。その姿が戦艦土佐に似ていることから軍艦島の異名で呼ばれるようになった。
昭和30年の人口4,770人であったが、昭和34年には5,259人の最高の人口を記録した。
太平洋戦争から戦後のにかけての黒ダイヤ景気が過ぎ去り、ガス爆発事故などで規模が縮小され、人口が減少し、昭和49年には端島炭鉱が閉山して無人島になってしまった。
こに島には高島町の役場出張所、小学校、中学校、幼稚園、郵便局、交番、病院、各種商店、寺院、神社、公営住宅(公務員用)まであり、娯楽設備も映画館、パチンコ屋、飲み屋、居酒屋などあらゆるものが揃っていた。
町並み指数  50   
参考文献
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和62年
  日本の地名長崎県  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  2001年    


左側の建物は学校で下が小学校、上が中学校

一番左の建物が病院

左の建物が日本最初の鉄筋コンクリートのアパート

島の東側には炭鉱の施設があり、石炭の積出港でもあった。

島の東側
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