江戸期、ここ上久徳村は薩摩島津藩の外城の一つで地頭仮屋がおかれ「麓」が形成されていた。 ここで薩摩藩の内城・外城・麓に付いて触れておこう。 薩摩島津氏が破竹の勢いで九州制覇を完遂するために、多くの武士を作り上げた。だが天正15年(1587)豊臣秀吉・秀長の出陣により、薩摩・大隈・日向の旧領内に押し戻されてしまった。 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで西軍に属したが、懸命の嘆願により旧領を安堵された。そこで島津氏は内政に着手し、居城を城山城に移し鹿児島城(鶴丸城)と称し、城下町の整備も行った。しかし、多く抱えた武士をこの城下に収容しきれなく、各地に分散して外城が成立した。外城は100を越え、江戸中期には外城が113にも及んだ。薩摩藩では城下の武士を派遣して、行政組織を強化した。地頭仮屋を中心にして郷士(地方武士)が集住した。外城は城ではなく、人をもって城とする軍事上の拠点であった。藩主の居住する内城に対して外城といい、郷士の住む所を「麓」といった。近くには野町商人も集められ小城下町的な地域であった。日常生活は半士半農で、平常は農業を営み、非常時に備えて武技を磨くと云う生活であった。江戸幕府は一国一城令に背くようなこの外城制度を黙認していた。 弘治3年(1557)頃の地頭仮屋は前郷川の南岸と蒲生城の間にあり、当初の麓はこの地頭仮屋付近に慶長〜寛永期(1596〜1644)頃に成立したようだ。そして享保(1716〜36)頃に上久徳村の地頭仮屋(現蒲生町役場)を中心とし、後郷川と前郷川に挟まれた地域に移され、二つの川を外堀のように利用した町割りで、野町(町人町)も形成された。 明治14年の調べでは上久徳村の戸数527(内士族425)・人数2,369(内士族1,880)。野町は蒲生町として独立しており戸数63(全て平民)・人数323。 今、麓(武家屋敷)の面影は町役場裏側の西馬場と辻馬場に色濃く残っている。下馬場にも残っているのだが、通そのものが県道に拡張されてしまい風情が無くなっていた。 西馬場や辻馬場は当時の町割りがそのまま残り、石垣や手入れの良いイヌマキの生垣が連なり、武家門を配した町並は往時を偲ぶには十分だった。 鹿児島県の歴史散歩 山川出版社 鹿児島県高等学校歴史部会 1997年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和58 鹿児島県の地名 平凡社 下中邦彦 1984年 歴史の町並み再発見 葦書房 讀売新聞西部本社 1993年 |
上久徳の町並 |
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上久徳の町並 |
上久徳の町並(野町) |
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