今回訪ねたのは津屋崎千軒と呼ばれていた津屋崎浦地区である。 津屋崎は西に玄界灘に面した風光明媚な地域である。江戸期には博多の外港としての役割を担っていた筑前最大の浦で津屋崎千軒と繁栄を誇っていた。江戸期を通じて福岡藩領。 豊臣秀吉の朝鮮出兵にあたっても出兵湊の一つとされた。元和9年(1623)の記録によると津屋崎浦は水夫64人・丸木船44艘。明和3年(1766)の記録では漁船94・商船30。安永5年(1776)には漁船66艘・商船28艘で、問屋は9軒あって海運と漁業からなる浦であった。寛政期(1789〜1801)の津屋崎浦の家数332・人数1,488とある。 又この地は製塩でも有名で、津屋崎荒塩は博多の味を支える調味料として知られていた。寛保元年(1741)に讃岐国から来た大社元七は地形から塩田開発を考え、福岡藩の援助により塩田を開いたのが始まりで、その面積は50町歩にも及んだ。 この地の海運と塩田の繁栄は明治になっても衰えず、津屋崎千軒の賑わいを続けたが、明治38年の塩の専売法が施行され、塩の横流し事件を起こしたことと、海上に代わって陸上の交通の発達でこの地の繁栄は衰退していった。そして塩田は昭和46年ついに廃止された。 津屋崎は江戸期には度々大火に見舞われたので、その頃の建物が残っていないが、伝統に裏打ちされた重厚な建物が数多く残っている。中でも造り酒屋さんと公開されている「藍の家」辺りの町並みは古い町並み一級品である。中でも珍しいと思ったのは造り酒屋さんの杉玉のバックの壁が鏝絵になっていることである。 津屋崎の伝統的な建物は白漆喰が塗込められているが、妻入りの甲造りの建物がなかった様に思う。 この町は町並み保存に力を入れられているようで、その努力に敬意を表したい。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和63年 福岡県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 2004年 日本の町並みU 平凡社 江田修司 2003年 |
津屋崎4丁目の町並み |
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津屋崎4丁目の町並み(酒蔵) |