豊後高田市の町並 
新町・中央通
地図


 
新町の町並み
 昭和の町として売り出しに成功した豊後高田市は国東半島西部の政治・教育・文化・経済の中心地である。
文禄3年(1594)秀吉は豊後国を小藩に分割して、竹中重隆(重利)を高田城主として以来、城主が幾度も代わったり、無住になったりと変遷を繰り返したが、寛文9年(1669)松平忠房が島原藩主になって以来、高田も島原藩領となった。桂川右岸の旧高田城は高田役所となり、左岸の当地には高田会所が設けられ、幕末まで島原藩が支配統治した。
元和8年(1622)の人畜改帳によると、高田村の村高は796石余、家数296・人数701・牛20・馬40とあるので、この地方の在郷町的な存在だったのだろう。
明治9年の村況は、家数654(内農家300・商家276・製塩業50・漁業10・鋳造業4・社11・寺2)・人数2,767とある。
物産は「ろう」と「塩」で島原藩9代目の忠刻は領内にハゼの木を植えさせて「ろう」の生産を奨励したことが、後世の高田地方の特産品となった「木ろう」の始まりである。
製塩も高田地方の産業として活況を呈していたようだ。
温和な気候と肥沃な土地で農林・水産物にも恵まれ在郷町・商業地として発展した高田だが、基幹鉄道からも遠く、昭和30年代以降、人口は減少し続け、モータリゼーションの進展による人の流れが変わり、高田の中心街も極度に衰退していった。
そんな中行政・商工会議所・商業者の三者一体で「昭和の町」としての町おこし活動が長年行われ、予想を超える観光客の誘致に成功した数少ない好例の町である。
訪ねた当日も多くの観光バスが駐車場にあふれ、三々五々と食事や買い物や散策に出かけられていた。
商店街の町並みも大正から昭和初期に建てられた建物が多く残り、古い町並みというより懐かしい町並みの表情をみせていた。

町並指数 30
参考文献   
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和55年
  大分県の地名  平凡社  平凡社地方資料センター  1995年

新町の町並み

新町の町並み

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新町の旧共同野村銀行

新町の町並み

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