有田は日本の磁器のふるさとで、近世初期に有田泉山において白磁陶石を発見したのに始まった一大窯業生産地である。 佐賀藩主鍋島直茂は豊臣秀吉の朝鮮侵攻に参加した際、朝鮮から多数の陶工を連行した。その中の一人、李参平(初代金ヶ江三兵衛)が、17世紀初頭に泉山の白磁鉱を発見し、上白川天狗谷に築窯したのが近世陶磁器を代表する有田焼の創始とされる。 そして有田川上流には泉山の陶石を求めて陶工集団が移り住み始め築窯された。そして元和末年頃(1623)から寛永初頭(1624)には有田川中・上流に白磁器を焼成する登窯が乱立した。燃料として使用する木材の確保と陶石の保護の立場から、鍋島藩では統制に取り掛かった。寛永14年(1637)には窯場は有田郷7ヶ所と伊万里郷4ヶ所に限定された。そして江戸初期には大木村にあった有田郷代官所は、正保年間(1644〜48)に有田皿山に移され、藩庁の窯場統制の任に当たるようになった。 一方、白磁器を生産していた酒井田柿右衛門は寛永末年頃(1644)色絵磁器の生産に着手した。藩庁は陶石の使用制限とともに色絵技法の他藩への漏洩を防ぐため、さらなる統制を実施し、寛文12年(1672)に赤絵業者に対して「名代札」を与え、その戸数を11軒に制約した。そして赤絵業者の住むところを赤絵町とし、上と下の番所を設け、出入りを監視するなどして、その統制を厳格にした。その上と下の番所に挟まれてところが内山である。町が繁栄をみせはじめ、町並が広がるのは赤絵付けの技法が開発された17世紀半ば以降のことらしい。 このように白磁器生産から寛永末年の色絵磁器の完成期を経て有田皿山の形態と組織は完成し、元禄から享保年間を頂点として「古伊万里」と称される磁器生産の繁栄を来たした。 有田皿山で造られた有田焼は伊万里の港から船積みされたため、はやくから伊万里焼の名で名声が広まった。 こうして19世紀はじめには「有田千軒」と云われるほどの町並が形成された。今に残る町並は、文政11年(1828)に襲った台風と同時に起こった大火によって有田の町並が殆ど灰塵に帰したが、町並はたちまち再興された時に建てられた町並を基盤としている。そして昭和はじめの国道拡張にともない、町並はさらに大きく変貌を遂げる。このときに表通りに沿う多くの町家が建て替えられたが、主屋を後退させたり、前面を切り取るなどの対応をした家も多くあった。 その結果、昭和はじめの町家が連なる中に幕末からの建物や、外国人用に建てられた洋館も混じるという特異な町並の景観が形成された。 江戸時代末期から明治の初めに建てられた町家は妻入り白漆喰塗り込めの土蔵造りで中2階建てであるのに対し、明治後期から大正・昭和にかけて建てられた町家は、2階建てや中には3階建てもあり、妻入りと平入りが入り混じり、実に多彩な表情を備えた町並になっている。 佐賀県の歴史散歩 山川出版社 佐賀県の歴史散歩編集委員会 1995年 九州小さな町小さな旅 山と渓谷社 川崎吉光 2000年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和57年 日本の地名佐賀県 平凡社 下中邦彦 1980年 別冊太陽日本の町並 平凡社 湯原公浩 2003年 歴史の町並再発見 葦書房 読売新聞西部本社 1993年 |
大樽の町並 |
大樽の町並 |
大樽の町並 |
上幸平の町並 |
上幸平のドンバイ塀 |
上幸平の町並 |
幸平の町並 |
赤絵町の町並 |
赤絵町の町並 |
大樽の町並 |