天草市牛深町は天草下島の最南端に位置する。古くから天然の良港で、江戸初期までは一漁村に過ぎなかったが、良港を背景にとして漁業基地として発展した。 江戸はじめは肥前唐津藩領、寛永14年(1637)天草・島原の乱後、寛永15年(1638)富岡藩領、同18年幕府領、寛文4年(1664)再び富岡藩領、同11年から幕府領のまま明治を向かえる。 寛永16年(1639)の鎖国令によって、表面的にはキリスト教の禁教政策としながらも、西南諸藩の密貿易を抑え、長崎を唯一のオランダ・明・朝鮮との貿易玄関口とし、幕府による貿易の独占体制を整えた。 この鎖国体制を維持する必要から、天草が長崎の南東に位置し、長崎近海の見張り番としての役目で、 天草を幕府領としておく必要があった。 そして享保2年(1717)には牛深に遠見番所が、寛政11年(1799)には長崎奉行所直轄の湊番所も新設された。 尚 正保2年(1645)漁業権設定と運上取り立てのため定浦制が敷かれた。牛深村もその一つとなり、漁業では潤ったが、御用船に人を出す水主数も初め44人、のち37人と運上銀も決められた。 「肥後国志草稿」には家数75・人数999とあるが、「天草島鏡」によると、天保4年()の家数948・人数6,669とあるように、当時天草郡内一の人数に膨張していた。それは江戸末期に鰹漁業が盛んになり多くの人が集まったもの。 訪ねたのは牛深町の真浦・加世浦・船津と云われる集落で、車の通れる広い通り以外は漁師町そのもので、細い路地道に軒を重ねた密集集落があった。 熊本県の歴史散歩 山川出版社 熊本県高等学校社会科研究会 1995 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和62 熊本県の地名 平凡社 下中邦彦 1985年 |
牛深町真浦の町並み |
牛深町真浦の町並み |
牛深町真浦の町並み |
牛深町真浦の町並み |
牛深町船津の町並み |
牛深町船津の町並み |
牛深町船津の町並み |
牛深町船津の町並み |