城下町秋月は筑前の小京都といわれ、戦国時代の雄、秋月氏と秋月藩黒田氏の栄華がひっそりと眠る城下町である。 初代福岡藩主黒田長政が入部すると、秋月には叔父の黒田直之を配した。長政が元和9年(1623)に没すると、三男長興が5万石を分知され秋月藩が成立したものである。寛永元年(1624)家中屋敷の縄張りが行われ家臣たちが福岡から移転してきた。陣屋は古来秋月氏の居城であった梅園にあり、直之の館を修理して用いたと云われている。 寛永後期(1643年頃)の町の様子を示す秋月古図によると、陣屋の西側に接して南北に通る杉馬場がある。同馬場の西側を平行して走る南北の通りと、その通りに直交し野鳥川の北側を東西に走る秋月街道(旧国道322号線)が主な通りであり、この二つの通りが交わるところが札辻である。武家屋敷は杉馬場通りの西側一帯と杉馬場の東側は山際まで、札辻から東に向う道では道の両側、札辻から南に向う道では北の方ではこの通りに並ぶ町家の裏側、南の方ではこの通りの両側に配置されていた。町家は札辻から北側では通りの両側、札辻の南の方では通りの中程まで両側、札辻の西の方では通りの両側に町家が並んでいる。 秋月藩の人口調査によると、亨和元年(1801)には町人1,367・家中2,647。弘化2年(1845)には町人2,080・家中3,373であった。 江戸時代の秋月の町割りが今にそのまま残っている。武家地の多くは田畑に還ったが、長屋門や石垣・土塀の一部は今も残り、かっての城下町・陣屋町の面影が色濃く残っている。町家も大多数は建て替えられたようだが、江戸期に建てられた妻入りの入り母屋造りの町家が数多く残り、白漆喰の白さが印象的な町並であった。 福岡県の歴史散歩 山川出版社 福岡県高等学校歴史研究会 1996年 歴史の町並み再発見 葦書房 読売新聞西部本社 1993年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和63年 日本の地名福岡県 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 2004年 別冊太陽日本の町並U 平凡社 湯原公浩 2003年 |
下秋月の町並 |
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下秋月の町並 |
下秋月の造り酒屋 |
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下秋月の眼鏡橋 |