和田村は長野県のほぼ中央部に位置し海抜は役場の位置で819mである。 和田郷を支配していた大井信定は、天文22年(1551)に甲斐の武田信玄に滅ぼされ、和田は武田氏の支配下に入った。天正10年(1582)に武田氏が滅亡し、織田信長配下の真田昌幸が支配した。その後、政権は豊臣秀吉の天下を経て、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後、徳川家康が実権を握ったが、真田氏の支配は変わらなかった。 和田に大きな転機が訪れるのは、中山道が開かれ、和田宿が成立する慶長7年(1602)以降のことである。中山道は、江戸と京都を結ぶ東海道とともに、諸大名の参勤交代や、将軍に献上する御茶壷道中、そして姫宮方の通行に使われた。 和田宿から中山道随一の長丁場であり難所とされた和田峠を越えて、下諏訪宿までの五里余りの山間の道筋は少し遅れて慶長19年(1614)頃に完成した。 信定寺下の中町・下町に宿の中心である本陣、脇本陣や問屋が置かれた。上町は周辺部の集落から人を集めて、やや遅れて成立した。そして江戸時代、社会の安定、生産力の上昇、商品流通の拡大、旅人や物資輸送の増加で宿が手狭になったため、正徳3年 (1713)には追川を越えて江戸側の橋場・新田を新たに宿に組み込んでいる。 天保13年(1843)の「中山道宿村大概帳」によると、和田宿は宿の長さ7町58間(約870m)、家数126軒、人数522人、本陣1、脇本陣2、問屋2、旅篭屋28であり、問屋、本陣、脇本陣などが中心部の中町付近にあり、上町から下町までさらに橋場、新田に旅篭屋や伝馬役、歩行役を勤める家、茶店、商店などが並んでいた。 和田宿の町並みを構成する町家の古いものは、文久元年(1861)の大火後に再建されたものである。本陣は和田城主大井信定の娘婿長井氏が宿創設以来、問屋、名主を兼ねて勤めていた。今ある建物は中山道和田宿の本陣として、文久元年(1861)に建設された本陣の居室棟である。 本陣の大名などが泊まる御殿部分の座敷棟は、丸子町の竜顔寺へ、御門は丸子町の向陽院に売却され今でも健在である。本陣の居室棟とは本陣の所有者が生活する場所であり、建坪220坪あった。 歴史の道資料館(かわちや)は文久元年(1861)の大火で焼失したが、同年11月に本陣、脇本陣等と同じく再建されたものである。和田宿の旅篭の内では規模が大きい方で、出桁造りで格子戸のついた宿場建物の代表的な遺構である。 その他、出桁造りの旅篭建築の遺構や「本卯建」が両端に上がった商家、など伝統的で見応えのある大型で重厚な家屋が連なって町並みの景観を創り出していた。 長野県の歴史散歩 山川出版社 長野県高等学校歴史研究会 1996年 中山道歴史散歩 有峰書店新社 斎藤利夫 1997年 和田村史 和田村 和田村史編纂委員会 歴史の道調査報告書W〜] 長野県教育委員会 中山道信濃26宿 長野県文化財保護協会遍 |
和田峠永代人馬施行所 |
|