海野宿の町並 
本海野


海野宿の町並
地図

  東部町は長野県の中央部東寄りで、町の南端を東西に千曲川が流れている。
天正11年(1583)真田昌幸が上田城を築城し、武家屋敷や町人町が造られたが、そのとき海野や大平寺村などから商人や職人たちを集めて住まわせ城下町が形成された。この海野の人々の出身地を本海野と称するようになった。 
海野宿は寛永2年(1625)に北国街道の田中宿の間の宿駅として設けられた。北国街道は中山道と、北陸道を結ぶ街道である。中山道の追分宿(現軽井沢町)で分かれ、田中宿・海野宿と続き、上田の城下町を通って篠ノ井(現長野市)で北国西往還と一緒になり、善光寺(長野市)を経て越後(新潟県)に入り、直江津に至る街道を北国街道といった。延長35里(約140km)に及び、街道筋には29宿が置かれ、表日本と裏日本を結ぶ重要な街道であった。
この街道は加賀(石川県)の前田氏をはじめ、北陸の諸大名が参勤交代で通った道であり、佐渡でとれた金銀の輸送などもあって、江戸との往来も激しく、善光寺への参詣客も多く利用していた。
寛保2年(1742)の大洪水で田中宿は大きな被害を受け、宿場の役割を果たすことができなくなり、海野宿へ本陣をはじめとし宿駅の機能の全てが移ってきたので、宿場の形態を整え、本陣の両側に脇本陣をおき、伝馬屋敷や旅篭屋が建ち並ぶ町並みができあがった。
延享3年(1746)の絵図面には、東枡形から西枡形まで5町25間(約590m)の長さであった。宿は東から上宿・中宿・下宿の3宿に分かれ、中宿にある本陣前には高札場が設けられていた。町並みの東端には白鳥神社と地蔵寺が並び、真ん中の川を挟んで北屋敷と南屋敷が並んでおり、北屋敷側には番屋・本陣・脇本陣を含め家数が43軒、南屋敷には61軒の家並みが続いていた。
この地方で江戸時代中期ころからは、農民の副業として発展したものに養蚕業と蚕種業があった。享保年間(1716〜36)の頃から文化年間(1804〜18)にかけて飛躍的に進歩してきた。降雨量の少ない傾斜地で、地形・風土が適しており、現金収入という魅力もあったので、殆どの農家で蚕を飼育するようになってきた。
海野宿も宿場の機能を、明治時代以降となると失い、本海野村では宿場時代の広く大きな部屋を利用して養蚕を初め、特に蚕種の本場となり「旅篭の町から養蚕の町」へと移り変わった。明治時代ともなると、蚕室造りの大きく堅牢な構えの家々が建ち並び、江戸時代の旅篭造りの家々とが混在し、両者はよく調和して落ちついた町並をつくっている。
道路の中央には、昔のままに用水が流れ、ところどころに石橋がかかり、出格子には「海野格子」や防火壁の卯建、出桁造りの旅篭の家並など、趣のある町並みである。 
海野宿の家々を見ると二種類のタイプがある。一つは宿場時代に建てられたもので、切り妻造り、平入り、中二階建てで出桁造りの屋根勾配がゆるい建物で高さが低い。今は鉄板葺だが、もとは石置き板葺屋根であった。もう一つは養蚕の盛んな明治・大正の時代に建てられたもので、屋根は瓦葺で、建物の高さが高く、壁を大壁造りとしている。
宿場時代の旅篭も、養蚕が盛んな時期に、養蚕に適するような改造が加えられた。緩い勾配の屋根の上に「気抜きの小屋根」があがっているのがそれで、火を焚いて室内を保温した名残で、その煙り出し用の小屋根である。
宿のやや東寄りに旧関家が海野宿資料館として公開されていた。この建物は江戸時代の寛政年間(1790頃)に建てられた旅篭屋造りの建物である。     
町並み指数 90
参考文献
  長野県の歴史散歩  山川出版社  長野県高等学校歴史研究会  1996年
  歴史の町並みを歩く  保育社  高士宗明  平成6年
  東部町史  東部町  東部町史編纂委員会
  本海野の歴史  東部町本海野区  本海野の歴史刊行委員会  平成7年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会 


海野宿の町並

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