上野原市は山梨県の最東端に位置し、僅かの距離で神奈川県と東京都に接している。東流する桂川と南流する鶴川の合流点北部河岸段丘上にある。 江戸期の支配関係は、初め谷村藩領、宝永元年(1704)からは幕府領で概ね石和代官所谷村出張陣屋支配。 河岸段丘上に立地するため田は少なく、畑作を中心に農業が行われていた。このため機業・養蚕が盛んに行われ、宿場の往還稼ぎも大きな比重を占めていた。寛保2年(1742)に再興した1・6の日の六斎市では絹・紬の売買が盛んに行われた。 家数・人数は寛文9年(1669)152軒。文化初年(1804〜18)410・1,875。文政7年(1824)419・2,062。天保3年(1832)423・1,985とある。 上野原村内に甲州街道の上野原宿が置かれ、甲州街道の甲斐国への入口として口留番所が置かれて賑わっていた。 天保14年(1843)の甲州道中宿村大慨帳によると宿内町並みは東西6町18間余り、家数159・人数784、本陣1、脇本陣2、旅籠20、問屋2があり、高札場も郷蔵が4ヶ所あった。宿の両側には家並みが続くが、その他は畑であった。旅籠屋の他に食物を商う茶店もあり、他に諸商人もいた。 宿場と云えど農業が主で村民の多くは農間仕事として、男は駄賃稼ぎ・女は絹紬の織出し等に従事していた。 旧甲州街道がそのまま国道20号線になり、当時の宿場町がそのまま今の市街地になったので、古い建物が連続して残っている状態でないが、伝統的な様式で建てられた建物が点在している。 伝統的な様式の家屋は平入り・切妻造りのトタン屋根で、中2階建てもしくは背の低い2階建てであった。 残念ながら、古い町並みを保存する云々などのレベルでなく、所々に残っている古い建物も何時解体されても不思議でない状態だったが、せめて今残っている本陣門だけでも残してもらいたいものだ 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和59 山梨県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1995年 |
上野原の町並 |
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旧上野原宿の本陣門 |