上野原市野田尻は山梨県の最東部、桂川の支流鶴川に合流する仲間川上流域に位置する。江戸時代は甲州街道の宿場が置かれていて、甲斐国に入って上野原宿・鶴川宿に次いで三宿目の宿場町であった。 江戸はじめ谷村藩領、宝永元年(1704)からは幕府領で概ね石和代官所谷村出張陣屋の支配であった。 この辺り一帯は田が少なく畑作農業が主であって、養蚕が盛んで他に機業・山稼ぎ・駄賃稼ぎなどが重要な生活手段だった。文化初年(1804〜18)家数63・人数574・馬31とあり、他の近隣宿場に比べて馬が多い。 野田尻宿は天保14年(1843)の甲州道中宿村大慨帳によると、宿内の町並みは5町余り、宿内家数118・人数607・本陣1・脇本陣1・問屋場1・旅籠屋9(大2・中3・小4)と記されているが、分間延絵図では本陣の東西両隣に各1軒、計2軒の脇本陣が見える。 宿の街道の両側には家並みが続くが、裏は畑で、旅籠屋の他に食物を商う茶店があり、他の諸商人もいた。 明治24年桂川に沿って、上野原〜鳥沢間に新道(通称川辺通り)が開かれ、甲州街道に沿う野田尻宿は衰退し、更に明治30年代中頃に国鉄中央線が開通し、野田尻の衰退は決定的なものとなった。 今、野田尻宿内約500メートル程にわたって大型旅籠屋の建物が多く残っている。明治中期に急激に衰退しその後回復しなかった結果、古い町並みとして見応えある家並みが残った。 建物は明治時代以降のもののようだが、広い街道に沿って2階建、平入り、切妻造り、トタン屋根の家並みが続く。梁を突き出した出桁造りが多いようだ。その家並みも街道の南側に多いのはどうしてだろう。道路拡張で北側は取り壊されたのかも知れないと思いながらの探索であった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和59 山梨県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1995年 |
野田尻の町並 |
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