上田も城下町・宿場町・商業町の顔を持つ町。真田氏時代の上田城およびその城下町の実態は明らかでないが、今の城跡あるいはそれより西寄りに城郭があり、その北と東に武家屋敷を置いたとみられる。 真田昌幸が天正11年(1583)上田盆地の中央にあたるこの地に築城した。以後真田氏2代40年間、元和8年(1622)から仙石氏3代85年間、宝永3年(1706)から幕末まで松平氏が支配した。 城下町の整備は真田氏が各地から住民を移したことからはじまり、その後の仙石氏に受け継がれていった。 町家は海野郷と原之郷から民家を移して、海野町と原町とし、それぞれに問屋を置いて別々に六斎市を開いた。上田城下は北国街道(北国脇往還)の宿場でもあり、海野町問屋柳沢太郎兵衛家は本陣を兼ね、原町問屋は滝沢助右衛門家が勤めた。 城下東端に鍛冶町を、西端に紺屋町を置いて町域を確定している。その後海野町分に横町が、原町分に柳町・田町ができて次第に町並みが整えられた。 家数・人数を見ると、仙石氏時代の寛文3年(1663)の上田領戸口改が最も古い記録で、城周りの家数225(内侍屋敷183、その他扶持人42)。町方は海野町77・657、鍛冶町42・282、横町65・353、原町96・790、柳町31・136、紺屋町26・234、田町23・158、計350戸・2,610人となっている。松平氏時代の宝永3年()の上田藩村明細帳も家数358で殆ど変っていない。 今回訪ねたのは、一番古い町並みが残る柳町だ。寛文3年(1663)の上田領戸口改で家数31・人数136。延宝3年(1675)は家数43・人数109。宝永7年(1710)は家数29・人数171とあり、享保20年(1735)頃に家並みが揃ったと云われていて、やがて商店・問屋や旅籠も多くなってきた。 今、上田城跡公園の北を国道18号線が東西に通る。その南側の矢出沢川を隔て旧北国街道が東西に通る。旧北国街道を東に進んで、小さな流れの蛭沢川を越えて直ぐ南に折れると柳町の見事な古い町並みが現れる。伝統的な様式の商家や問屋・旅籠屋の建物である。立派な袖卯建を揚げた商家建物が並んでいたのには驚いた。そういえば隣の海野宿にもこのような袖卯建を揚げた家が並んでいた。 切妻造り平入り、中2階建て千本格子を残した家も多く、造り酒屋も伝統的な様式の家屋を構えていて、見ごたえある古い町並みを形成していた。 只、宿場町を訪ねているのに、本陣や脇本陣・問屋跡がこの柳町にないのでチョット宿場町としては物足りない感じもする。 長野県の歴史散歩 山川出版社 長野県高等学校歴史研究会 1996年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1990年 長野県の地名 平凡社 下中邦彦 1979年 |
中央4丁目の町並み |
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