燕市は新潟県中部の信濃川水系中ノ口川の左岸の金属工業都市である。 燕町が町場として形を整えた時期は不明であるが、中ノ口川左岸の自然堤防上にある町で、延宝9年(1681)の町割絵図があり、中ノ口川に沿った細長い町が描かれている。 短冊形に136筆に区画され、村上藩の飛地支配陣屋が置かれ、中ノ口川に並行する道路は「通り」、通りに直角に交わる細い道を「小路」と称していた。町の中央に燕組大庄屋の樋口嘉兵衛の家があり、町年寄りの屋敷もあったようだ。 元和2年(1616)三条藩領、元和9年(1623)幕府領、慶安2年(1649)からは村上藩領で明治を向かえる。 宝暦5年(1755)成立の3・8の六斎市(越後名寄と云った)が開かれ、7月26日〜8月3日の間に馬市が開かれていた。 元禄14年(1701)の村々人数家数調によると家数192・人数1,181。宝暦6年(1756)の村々高反別の覚には家数295・人数1,717。天保10年(1839)御巡村御道筋五ケ組御案内帳によると家数317・人数2,406とある。 古くから金物の産地として知られ、和釘は寛永年間(1624〜44)江戸から職人を招き、農間余業としたことに始まる。そして明治維新後洋釘が輸入されるまで、若狭の小浜と共に和釘生産の中心地であった。 この和釘の他、鎚起銅器・鑢・彫金技術などが伝わり、この地が金物生産の一大拠点となっていた。 明治19年の燕町戸籍による職業調査表によると、鍛冶職359・鍛工44・銅鍛冶4・彫鍛冶2・鉄物31・金物8・鉄物商2・金物商3があり、金属器関係が半分近くを占めていた。 そして明治末期になり洋食器製造も始められ、第2次太平洋戦争後はステンレス製になり、洋食器産業は燕の基幹産業となった。 古い町並みは中ノ口川に沿った町並みに展開していたが、かって雁木が備わっていたであろう町並みは、道路を覆うアーケードになったり、雁木が取り去られアーケードになっていて風情がなかった。アーケードの奥で伝統的な様式の家屋が、肩身に狭い思いで建っていた。 それに比べ、商店街から少し外れた所では、雁木も残って妻入り切り妻造り2階建ての古い形式の町家が並び、古い町並みを形成していた。 角川日本地名大事典 角川書店 角川日本地名大事典編纂委員会 1989年 新潟県の地名 平凡社 下中邦彦 1986年 新潟県の歴史散歩 山川出版社 新潟県の歴史散歩編集委員会 1996年 |
燕仲町の町並み |
燕仲町の町並み |
秋葉町1丁目の町並み |
秋葉町1丁目の町並み |
秋葉町1丁目の町並み |
秋葉町1丁目の町並み |
秋葉町1丁目の町並み |
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