小谷村千国の町並 
千国
地図


小谷村千国の町並
  千国は中世から塩の道、糸魚川街道(千国街道)の荷継宿であった。
千国は戦国時代には千国郷といい、諏訪大社と深い関係にあった。諏訪大社造営関係の史料に小谷郷と何度も記載されている。長享2年(1488)の春秋宮造宮次第では、春宮の五間拝殿の造営を「千国・小谷」が負担、永録9年(1566)の諏訪大社下社造宮改帳でも記載され、天正6年(1578)の下諏訪春秋両宮造宮帳、同年の下諏訪春宮造宮帳、同7年の下宮春宮などにも同様の記載がある。
千国村は江戸期を通じて松本藩領で、享保20年(1735)の家数252軒・人数1582人で村民の生業は米作を主としてきたが、耕地・生産量とも少なく畑では麻を栽培した。また千国村は荷継宿としても機能していて、千国街道沿いに牛方や歩荷を業とするものも多かった。
この千国街道は松本から安曇平の中央を貫通して姫川の谷を下り、糸魚川に通じる道で、江戸期には険しい山道をたどっていた。その上豪雪地帯であり、大町以南では馬も利用されてが、大町以北ではもっぱら牛を使用した。中山道と違い参勤交代の大名も通らず、宿場には本陣もなかった。北陸・越後の海産物が牛馬の背のよって信濃へ運ばれ、松本を中心とした住民の生活を支えた重要な輸送道路であった。
荷物は上り荷が塩・魚・海産物などで、下り荷は煙草・紙・麻などだが、上り荷が圧倒的に多かった。普通の宿と異なる点はこの街道には牛方宿という牛と荷物を泊める宿があったことである。冬場には牛さえも通行不可能となり、人(ボッカ)が背に荷物を載せて運んだ。
今でも街道筋には石仏が多く、茅葺の民家、牛方宿・塩倉が昔の面影を残している。
慶長年間(1596〜1615)から明治3年に至るまで、ここに松本藩の口番所が置かれ、通行税や塩などの荷物や人改めの監視をした。
戦国期にこの道を通って上杉謙信が武田信玄に塩を送ったというのは有名な故事である。また盆市・暮市が立ち、小谷村域は勿論松本からも商人が集い、織布・灯火・魚介類などが盛んに商いされた。
安政2年(1855)の安曇筑摩両郡村々明細書上帳によると、千国村の家数370軒・人数1835人であった。
町並は一部で茅葺屋根の民家が残っているが、大多数はトタン覆いが被っていた。寄せ棟造りの建物で、白い壁を表に出した真壁造りの建物だ。カブト造りに近い造りで前面を2階建てにした建物と、平屋の建物、総2階建ての建物など、同じ茅葺の家でもバラエティに富んでいた。
町並指数  50
参考文献 
  塩の道紀行という小谷村観光連盟のパンフレット
  角川日本地名大辞典  角川書店角川  日本地名大辞典編纂委員会  1990年

千国の町並

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