佐渡の南端の小木港へ直江津からの連絡船が入る。小木港から西に4kmのところに宿根木の集落がある。中世まではこの宿根木の港がこの地方の商業の中心だった。相川金銀山が開発されて、小木港が金銀の搬出、物資の搬入に利用され、また、西回り航路の寄港地になって発展したのとは対照的に、宿根木の港は衰退したが、舟持ち、水子、舟大工などが居住する集落になった。 江戸時代は幕府領に終始し、元禄7年(1694)の検地帳では286石余りとなっている。寛政元年(1789)の村細見帳では家数120軒、人数570人。天保12年(1841)の家数120軒、人数569人と増減なしである。 江戸時代の宿根木村は、佐渡第一の廻船持ちの村であって、明和年間(1764〜72)から佐渡城米1万5000石の大坂廻漕に従事し、大発展を遂げた北前船の船主、水主、船大工、などが居住する集落であった。19世紀の初め、文化・文政期(1804〜30)にはこの小さな村に千石船が八艘もあり、水主の数は100人を越えた。船は西回り航路に従事し、北は蝦夷地の江差・松前、南は赤間関(下関)を経て 瀬戸内海の各港から大坂へ航海した。 港といっても殆ど天然の港で人工の設備は殆どなく、岩礁の小湾の奥の小さな谷間に100戸ばかりの家がひしめきあって建ち、屋根ばかりで隙間がなく混み合い、港に面してない港町だ。 町の中の道は、人が通れるくらいの幅でその細道は石畳であるが、道の中央は磨り減って凹んでいる。また、密集して建つ家は総二階建の家ばかりで、その垂直した板壁が道の両側にそそり立ち、見上げる空は狭く、廻りの風景など何も見えないし、海の存在すら感じられない。 また、宿根木は船大工の町といわれる。幕末期の史料に「船大工の棟梁は3人、船大工は31人」とあるから、廻船業に伴って繁栄していたのだろう。 民家二棟が公開されている。一つは清九郎家で船主の屋敷で、幕末から明治中期にかけて財をなした船主の居宅を、木羽葺き石置き屋根に復元している。外観は他の家同様に質素だか、中は立派なもので柱、梁、天井、建具に見事な漆塗が施してあった。もう一軒の金子屋は船大工の家であった。江戸後期の建築で、幕末から明治にかけて船大工を営んだ家だ。こじんまりとした総二階建である。 宿根木の民家は他所の伝統的な建築群のように形式が揃っていたり、建物正面の装飾意匠を競い合ったりということが無いが、それでいて何となく統一観があるのはやはり伝統だろうか。 宿根木伝統的建造物群保存対策調査報告 小木町 昭和56年 新潟県の歴史散歩 山川出版社 新潟県の歴史散歩編纂委員会 1996年 歴史の町並みを歩く 保育社 高士宗明 平成6年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1989年 歴史の町並み事典 東京堂出版 吉田桂二 1995年 町並・家並み事典 東京堂出版 吉田桂二 昭和61年 |