天文22年(1553)から永禄7年(1564)までの川中島の戦い後、北信濃をおさえていた武田信玄は病死し、織田信長、上杉景勝、徳川家康配下の森忠政、次いで家康の六男 松平忠輝と支配者はめまぐるしく代わったが、元和2年(1616)頃より堀直重が須坂藩一万石の大名となった。そして初代直重から14代直明まで、およそ250年にわたって須坂地方13ヶ村を治めた 須坂藩は一万石の小大名であったから、城は持たず陣屋を構えた。そして2代目直升が、陣屋と陣屋町の建設にとりかかった。陣屋は鎌田山の麓におかれ、陣屋町の形態が整備された。大手は上町通りに開き、重臣の屋敷をその左右に配し、常盤町に下屋敷を置き、その外側の上町・中町・新町を鍵型にして家臣を町屋と混住させた。そしてその外側に寺社が配置され、小規模ながら城下町の形態をなした。 須坂は松川と市川(百々川)の二つの谷から下ってくる道が交差するところに発達した集落である。善光寺平の千曲川の東部を南北に貫く谷街道(須坂−中野−飯山)と上州方面に通ずる大笹街道(仁礼街道)・草津道の分岐するのが中町の辻。そこに発生した商業集落が須坂の町のはじまりである。 須坂の町は、江戸時代の初め頃は、交通の要地で須坂・上高井地方の政治の中心であったが、やがて交差路を中心に商人や職人の家が軒を並べる商工業の町として発達していった。 須坂地方は早くから麦、大豆、あわなどの雑穀栽培が盛んであったが、時代と共にますます商品作物の栽培が盛んになり、定期市での取引範囲も広がってきた。そして多くの同業者仲間ができた。 江戸末期、須坂の農家戸数の全戸数に占める割合は14%弱で、すでに商業都市の様相が濃厚であった。特に多かったのが穀商で、この地の米ばかりか越後の米にも手を伸ばして、上州・関東へと送り出していた。 長野県の養蚕・製糸については、あまりにも岡谷の方が有名になってしまい、須坂については、あまり語られないが、岡谷と同様に養蚕の最も盛んなところであった。 明治元年には信州の蚕種輸出が188万枚にもおよんだ。また須坂では製糸も発達し、明治8年に東行社、明治18年には俊明社が成立し、須坂の二大製糸結社として須坂の製糸業を発展させることとなった。 須坂は岡谷と並ぶ県下の大製糸業地域に成長していった。 須坂は土蔵造りの町として有名である。須坂のまちに並ぶ土蔵造りは非常に壮観である。この土蔵造りも明治になって、製糸業が発展したことにより出現したものである。 明治から昭和にかけて生糸で栄え、鐘楼、望楼、卯建、三階建の繭蔵、土蔵造りの民家、塗込め造りの重厚な民家、長屋門、奥深い屋敷構えの家など、繁栄を物語る製糸家の舘が町のいたる所に連なっている。 須坂の町家には、京の町家のような情緒豊な格子戸がない。重々しく瓦をのせた土蔵造りの建物の建ち並ぶ須坂の町は、壁の白、屋根の黒瓦の連続である。この町並みから受ける印象は普通の町並みとは異なる。それは重厚な白漆喰壁と重々しい屋根によって構成されているからのようだ。 長野県の歴史散歩 山川出版社 長野県高等学校歴史研究会 1996年 須坂市史 須坂市 須坂市史編纂委員会 角川日本地名大事典 角川書店 角川日本地名大事典編纂委員会 |
旧谷街道の東横町の町並み |
旧谷街道の東横町の町並み |
本町通り中町の町並み |
旧谷街道の東横町の町並み |
旧谷街道本町通り春木町の町並み |
本町通りの町並み |