塩尻宿の町並み
堀の内・塩尻町仲町・塩尻町
地図
堀内家住宅(国の重要文化財)
徳川家康によって、江戸初期に主要五街道が設定された。慶長6年(1601)に大久保十兵衛長安により下諏訪―三沢―楡沢―小野―牛首峠―木曽桜沢を結ぶ初期中山道が開設されて、塩尻は通らなかったが、長安が没すると間もなく、中山道は新たに下諏訪から塩尻峠を越えて塩尻、洗場、本山の三宿を通る道筋に変更された。江戸はじめは松本藩領、享保10年(1725)からは幕府領となった。 塩尻宿は中世の東山道の古宿の南隣へ新設された。宿の設定にあたってはもとの塩尻宿や近郷から人々を移して宿場を作った。 宿の長さは慶安4年(1651)の検地帳では5町40間であるが、天保14年(1843)の「中山道宿村大概帳」では東に伸びて七町二十九間となっている。宿は東から上町・中町(室町)・下町(宮本町)に区分され、道の両側を間口三〜四間を一軒の規準として街村式に町割した。 宿の中央部南側には東から問屋・本陣・脇本陣が並び、北側には問屋や大きな旅篭屋などが並び、これらは間口が十〜二十間にも及んだ。 慶安4年(1651)の塩尻宿書上帳では家数119軒・人数828人であって、この内旅篭は45軒であり、幕末の天保14年(1843)の「中山道宿村大概帳」では家数166軒・人数794人となっていた。 本陣は宿創設の際、西条村から川上氏が移住して代々本陣を勤めた。本陣は表門・上段の間を備え建坪は288坪、間口24間もあり、中山道第一の大きさであったが、明治15年の大火で焼失してしまった。脇本陣は本陣西隣にあり、本陣川上家の分家 川上喜十郎が江戸中期より勤めていたが、明治の大火で焼失してしまった。 塩尻宿はこの明治15年の大火で本陣・問屋をはじめ、宿の大部分が焼失してしまったので、宿場時代の建造物は殆ど残っておらない。その中で大型旅篭の小野家住宅(国重文)と庄屋であった堀内家住宅(国重文)が残っているのみで、小野家住宅は二階建の平入りであり、僅かに旅篭であった名残を留めていた。 堀内家住宅は本棟造りで、大型上質の家であり、正面の外観意匠は力強く、この系統民家の一頂点を示すものとしての価値が高い。 長野県の歴史散歩 山川出版社 長野県高等学校歴史研究会 1996年 中山道歴史散歩 有峰書店新社 斎藤利夫 1997年 塩尻市史 塩尻市 塩尻市史編纂委員会 歴史の道調査報告書W〜] 長野県教育委員会 中山道信濃26宿 長野県文化財保護協会遍 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 |
塩尻宿の小野家(国重文) |
塩尻宿の民家 |
塩尻宿の民家 |
塩尻宿の民家 |
塩尻宿の堀内家(国重文) |