塩尻市本山宿 
宗賀本山
地図


出桁造り旅篭屋の連なる町並
本山宿は中山道木曽路の最初の入口である。
文録4年正月豊臣秀吉は上野国草津湯に向う道中、この地で宿泊している。本山集落の東山にある本山城は、木曽への入口にあたり、当地の支配で去就した木曽氏、三村氏、小笠原氏などに利用されていたと見られる。
関ヶ原の戦い後の慶長7年(1602)に設置された中山道は、大久保長安によって下諏訪から三沢(岡谷市)、小野(辰野町)、牛首峠を越えて木曽桜沢に至る最短距離で設定され、塩尻は通らなかった。長安の死後の元和2年(1616)頃、先の道筋が廃止され、新たに下諏訪から塩尻峠を越えて塩尻、洗馬、本山の三宿を経て木曽に向う道筋が設定された。
本山宿は南から上町、中町、下町に区分されていたが、現在は上町・下町である。
江戸初期には松本藩領であったが、享保10年(1723)から幕府領で松本藩預かり地となる。
享和元年(1716)の宿明細帳(宗賀村誌)によれば、町の長さ500余mで、松本藩口留番所が宿の京寄り(南)に置かれていた。寛政12年(1715)には家数150軒・人数606人であった。
天保14年の宿村大概帳によると、家数117軒・人数592人、本陣1、脇本陣1、旅篭屋34、問屋2であった。
本陣は小林家が下問屋と兼務して勤め世襲し、もと本山氏の居館跡といわれている場所にあり、今は明治天皇の巡行碑が建っている。脇本陣は花村家が上問屋と兼ねて勤めていた。現在跡地は本山公民館となっている。
国道を宿場内に通すことなく、バイパスを通したので、町中の屋敷割りや小路も残り、出桁造りの町並が多く残った。旧中山道は宿内では幅が広くなって宿場町を通っている。道路幅は10m位は有るだろう。その街道に沿って町並を構成する旅篭の建物は、切り妻造り平入り2階建てで、1階より2階部分が道路に突出した出桁造りである。
屋根は石置き屋根であったが今はトタン葺きや瓦葺きになっていた。格子も多くの家が残していて、各戸の表には昔の屋号の表札を掲げ、古きを大切に保存しようと努力されていた。
この宿の周辺では蕎麦が栽培されていて、「蕎麦切り」が宿の名物であって、参勤交代の大名も賞味したという。
町並指数  50
参考文献
  中山道歴史散歩  有峰書店新社  斎藤利夫  1997年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  1990年
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