塩尻市郷原宿の町並 
広丘郷原
地図


郷原宿の町並

  中山道洗馬宿で分かれて、北にむかい郷原宿・松本宿を経て善光寺へいたる道筋を、北国脇往還または善光寺道といった。
郷原宿は慶長19年(1614)、松本城主小笠原秀政が、中山道洗場宿と北国街道篠ノ井追分を連結するために、北国脇往還を整備して設定した宿の一つである。設定にあたっては中山道洗場宿から松本へ通ずる道を新設し、奈良井川東岸にあった上野の人々を道路沿いに移して宿場を形成した。街道は直線的で、桝形や鍵の手などの曲折はない。
慶長19年(1614)の宿創設当時には、総家数23軒で問屋一軒、伝馬役八軒であったが、35年後の慶安4年(1651)には38軒。これが安政2年(1855)には総家数72軒となっている。それでも中山道三宿の天保14年(1843)の家数は塩尻宿166軒、洗場宿163軒、本山宿117軒と比べるとはるかに少ない。これは中山道が五街道の一つであって公儀の通行が多く、主要街道としての宿場の構成を備えていたからであり、郷原宿は地方の脇街道の宿場であったためである。
郷原宿は一軒の間口が六間以上であり、奥行きも三十〜四十間ほどで、その奥に大きな畑を持っていた。これは他の多くの宿場と比べ間口が広かったのが特徴である。
郷原宿には正式の本陣や脇本陣はなかったが、山城屋(赤羽家)を土地の人は本陣と呼んでいる。赤羽家は、郷原宿の西側にある大きな本棟造りの町家で、江戸時代には松本領塩尻組の大庄屋も勤めた旅篭屋で善光寺詣での公卿も泊まったといわれる。
しかし善光寺道は公用旅行者や大名の通行が少なかったので、本陣をはじめ旅篭や茶店も旅行者の休泊だけではやっていけないので、多くの家が農業を兼ねていた。しかし山間で耕地が少ないので出稼ぎ・藁細工・駄賃稼ぎなどによって現金収入を得ていた様だ。
郷原宿は、文政4年(1721)と安政5年(1858)と二度の大火で殆ど全焼し、今ある古い家も安政5年の大火のあとの再建である。板葺屋根の豪華な本棟造りの家が点在し、出格子のある切り妻造り、平入りの家が混じって、宿場の面影を今日に伝えている。これだけまとまって本棟造りの宿場が残っているのは他に例を見ないように思う。また、家の前には広い前庭があり、その前面に庭木が植えられ、それが緑の並木をつくって、他の宿場にはない独特の景観を醸し出している。 
町並み指数 50
参考文献
   長野県の歴史散歩  山川出版社  長野県高等学校歴史研究会  1996年
   塩尻市史  塩尻市  塩尻市史編纂委員会
   歴史の道調査報告書W〜] 長野県教育委員会
   中山道信濃26宿  長野県文化財保護協会遍
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会


郷原宿の町並

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