下諏訪町の町並 
下諏訪・湯田町
地図


旧中山道沿いの旅館街 左側は御宿「まるや」で
脇本陣 丸屋要五郎家である。
  下諏訪町は諏訪大社下社春宮と秋宮の門前町として発展し、鎌倉期には幕府とのつながりが深く、下諏訪濫觴によれば、天正3年(1575)には中山道が整備され、和田峠下の町屋敷から移して、下諏訪宿が建てられ、和田峠・塩尻峠を控えた宿となり、問屋場が設けられ、織田・豊臣期には「湯之町」と呼ばれて賑わった。江戸期には中山道と甲州街道の合流点ともなり、中山道唯一の温泉宿場として栄えた。
下諏訪宿は中山道と甲州街道の接点の宿で、正式な宿駅の制定は当時の記録が失われているので、はっきりとした成立年は不明であるが、中山道の制定・整備とともに下諏訪宿も成立・整備されたものと思われる。近隣の史料から推定すると慶長6年(1601)には成立していたことがわかる。
宿は中山道と甲州街道の接点である綿の湯前を中心に、そこに問屋場があり、その奥に本陣があった。
本陣は当初小口弥右衛門が2代勤めたが、岩波太左衛門が後を継ぎ、問屋も兼ねて、8代にわたり明治まで勤めた。脇本陣は本陣の斜め向いにあり、丸屋要五郎が勤めていた。
町の長さは4町50間、他に甲州口通りの町50間あった。下諏訪は諏訪下社門前町、中山道・甲州街道の宿場町として賑わい、享和元年(1801)の宿方明細書上帳では、旅篭屋42軒。文久元年(1861)の下諏訪宿絵図によると家数280軒。
天保14年(1843)の中山道宿村大概帳によると、家数315軒・人数1345人・本陣1・脇本陣1・旅篭40・問屋1であった。
明和9年(1772)を除く延享4年(1747)から天明3年(1783)までの36年間の大名通行の様子を見ると、この間に263回の利用があり、最も多いのは明和6年(1769)の16回、続いて寛延元年(1748)の14回、明和元年(1764)の13回などで、年平均7.5回程である。この中には参勤交代以外に幕府公務のものも含まれる。
宿で対応の大変だった通行は、将軍家で使用するお茶を運んだお茶壷道中、朝廷から日光の家康廟への例幣使、そして幕末の和宮降嫁の通行であった。
お茶壷道中は宇治の茶を甲州谷村へ運ぶ茶壷道中が、寛永9年(1632)からはじまり、延宝8年(1678)の高島藩御用部屋日記では、茶壷を諏訪大社下社秋宮神楽殿に安置し、家老以下70人が徹夜の警備を行っている。
日光例幣使の一行も下諏訪宿への宿泊を常とし、文久元年(1861)の旅篭払覚帳によれば、本陣のほか旅篭30軒に340人が泊まり、本陣を除く宿料は15両余りであったが、通常宿料は支払われず、出立に際して逆に草履銭を徴収された。
文久元年(1861)和宮降嫁の際の行列は、下諏訪宿の通過に3日を要したなど。
本陣の遺構は今、本陣岩波家として公開されている。街道から門を通って奥まったところにあり、皇女和宮御降嫁当時の姿を残し、二つの庭園もそのまま残っていて、上段の間は隣の分家かめやホテル内に保存されている。脇本陣の丸屋家は今も御宿「まるや」として現役の旅館で盛大に営業されていた。
下諏訪歴史民俗資料館は明治初年の建物で、宿場の商家の遺構をよく留めている。間口が狭く、奥行きが長い、格子、くぐり戸付きの大戸、低い天井、箱階段などの建物の特色が見られる。
この宿の伝統的な家屋の建て方は、切り妻造りの中2階または2階建て、平入り、屋根は昔は石置き板張りであっただろうが、今は瓦かトタン葺きになっていたが、石置き屋根の感じは十分に感じ取れる。
中山道の木曽路の宿場では、出桁造りが多かったが、下諏訪宿で出桁造りは数が少ない。
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参考文献
  長野県の歴史散歩  山川出版社  長野県高等学校歴史研究会  1996年
  中山道歴史散歩  有峰書店新社  斎藤利夫  1997年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  1990年

旧中山道沿いの旅館街

  旧中山道沿いの旅館街

旧中山道沿いの旅館街

 旧中山道沿いの旅館街
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