関川村下関は江戸時代、米沢街道沿いの宿場町、荒川船運の拠点として栄えた所である。(米沢街道とは、新発田城下又は村上城下から出て、大島村(現関川村)から荒川をさかのぼり、下関宿から大里峠を越えて出羽小国(現山形県小国町)に入り、米沢城下に入る街道) 江戸時代には荒川が出羽米沢藩領と日本海をつなぐ重要な流通路となったので、村上藩は上関に口留番所を設け、武器の出入り、鉛や煙硝の他国移出、米・塩・材木などの船運を取り締まった。 下関・上関両村は米沢街道の越後国内での人馬継ぎたての基地で、慶長19年(1614)村上藩主村上忠勝より、荷物の取り扱いは上関・下関に15日間づつ行うことなどを命じた宿継ぎ定書が出された。そして下関村は全盛期には駅馬44疋を常備したと云われている。 下関村ははじめ関下と呼称されていた。関の下手にあったからで、それが転じて下関となった。 江戸時代のはじめは村上藩領、寛永19年(1642)幕府領、正保元年(1644)村上藩領、宝永6年(1709)からは幕府領。 寛政6年(1794)村明細帳によると家数52、人数256人、駅馬14疋。 今、村役場前の大通りを挟んで国指定重要文化財の渡辺家がありその左隣に県指定文化財の津野家、さらにその左隣に国指定重要文化財の佐藤家。そして渡辺家の右隣には村指定文化財の東桂苑の四ツの指定文化財が約400mほどの間に並んでいる。 渡辺家は地域産業文化の発展に大いに寄与した家柄で、廻船業・酒造業、新田開発などで財を成し、財政難で苦しんでいた米沢藩に幕末まで融資を続け、米沢藩から勘定奉行格の待遇を受けていた。主屋は天明8年(1788)に再建されたもので、石置木羽葺屋根撞木造りの重厚な建物と大きな土間に目を見張る。 佐藤家は庄屋を勤めた家柄で渡辺家に次ぐ大地主であった。今の建物は明和2年(1765)に建てられた茅葺き屋根の豪壮な建物。 津野家は改築を加えられているが、茅葺で商家の建物として貴重なもの。東桂苑は渡辺家の分家として明治38年に、明治の建築技術の粋を集めて建てられた建物。 渡辺家・佐藤家・津野家は共に撞木造りと云われる建て方で、通りに面しては平入りの棟と妻入りの棟をドッキングさせてT字型にした建て方で、この地域にはこの撞木造りの建物が多く見られる。 新潟県の歴史散歩 山川出版社 新潟県の歴史散歩編纂委員会 1996年 角川日本地名大事典 角川書店 角川日本地名大事典編纂委員会 1989年 新潟県の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1986年 |
関川村下関の役場前の町並 |
関川村下関の渡辺家 |
東桂苑(渡辺家分家)の門 |
東桂苑(渡辺家分家の主屋) 一見、板張りの学校か役場のように見えた。 |
下関の津野家(県指定文化財) 佐藤家と共に、平入りか妻入りか判らない。 二棟がT字型に合体した撞木造りの茅葺き屋根の建物 |
下関の佐藤家(国指定重要文化財) |
関川村下関の渡辺家 (石置き木羽葺屋根が大きかった) |
関川村下関の渡辺家(平入りなのか、妻入りなのか) 二つの棟がT字型に合体した撞木造りの建物。 石置き木羽葺屋根の大きな建物 |