慶長初期(1602年頃)の中山道開発当初は住家が無かったが、中山道整備に従って、宇町田・岩下辺りに散らばっていた家を集めて宿駅の機能を果たすこととなった。当初の伝馬屋敷は41戸という。岩村田宿と八幡宿との距離は比較的短いが、ここに宿が設けられたのは、千曲川という難所があったためだろう。中山道の通行の確保が最大のポイントであった。 町並みは東西4町28間。東端に枡形は無く、西端は大きく曲がって枡形をなし千曲川畔の橋場に下る。天保14年(1843)の中山道宿村大慨帳によると、家数116、人数574、本陣1、脇本陣1、旅籠屋9(中2・小7)、問屋は2軒あるが月の前後を分けて勤めていた。 元禄7年(1694)助郷制が確立すると、塩名田・八幡・望月・芦田宿で助郷37ヶ村が定められた。その後、延享3年(1746)の改変で塩名田・八幡両宿で助郷28ヶ村となったが、一宿25人・25疋の伝馬を常備するのは容易ではなかった。 塩名田宿と千曲川を挟んだ対岸の御馬寄村とには千曲川往還橋が架けられていた。この千曲川往還橋を管理して、交通を確保することが両村に課せられた責務であった。急流ゆえ橋の流失はしばしばであった。橋流出中は筏渡しとなり、荷物の中継所が川の両側にでき、助郷の負担は益々増大した。 今、塩名田宿には本陣建物も健在で、往時の宿場町の名残がある程度残っている。この宿場町の特徴に街道に面して正対せず、向かって左側を後退して建てられているのが多かったそうだが、今はこの特徴の家は殆どなくなり一部が残っているのみだった。 宿西端の枡形を下って川原宿と言われるとことに来ると、町並みの様相が一変する。木造3階建ての建物が混じる旅籠屋街の様相が色濃く残る地域だ。宿場町当時は旅人の憩いの場所・休茶屋のあった所で、「御や須ミ所、嘉登や」の看板を残した家もあり、当時の面影がただよっていた。そして千曲川の流れの際に現役の川魚料理旅館が営業されていた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1990 長野県の地名 平凡社 下中邦彦 1979年 長野県の歴史散歩 山川出版社 長野県高等学校歴史研究会 1996年 中山道歴史散歩 有峰書店新社 斎藤利夫 1997年 |
塩名田の町並み(本陣丸山家) |
塩名田の町並み |
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塩名田の町並み(3階建て) |
塩名田の町並み(3階建て) |