佐渡市沢根の町並
沢根五十里・沢根篭町・沢根町
地図


沢根篭町の町並

 佐渡市沢根地域は佐渡ヶ島中央西の真野湾に沿った真野湾奥部に位置する。
江戸期を通じて幕府領。天文11年(1542)には沢根・五十里の奥に鶴子銀山が開発され、麓の海岸部には近江国や越前国など諸国の人々の往来する港町ができた。
慶長5年(1600)頃相川に銀山が成立すると、五十里の港には銀山入用の諸物資が集まった。大型廻船の入港が可能な沢根は、相川との間に中山峠が開かれることにより、港町として発展した。
そして今回訪ねた沢根町・沢根五十里・沢根篭町について少し記載する。

沢根町は沢根城の城下町として沢根村に町場が形成され、鶴子銀山が開発されだすと、沢根港付近の海岸に問屋商人が集住し、近世初頭に沢根村から分かれた。村高は「天保郷帳」23石余。元禄年間(1688〜1704)の「御巡見御案内帳」では家数102・人数355。沢根港は鶴子銀山の積出港として発展したが、慶長年間(1596〜1615)を過ぎると銀山開発の中心が相川に移り、鶴子銀山の衰退に伴い町は衰退したが、相川の外港として役割を果たしていた。「佐州巡村記」によると天保12年(1841)の家数126・人数528とある。明治になっても北海道交易と越後への廻船によって港の機能を保っていたが、夷―相川間に県道が、夷―新潟間の航路が開かれると次第に衰え、廻船問屋の多くは店を閉じてしまった。
沢根五十里は江戸期は田中村といい、鶴子銀山の入口にあたる。元禄期(1688〜1704)頃の村明細帳では家数62・人数218、馬22とある。宝暦5年(1755)の村明細帳では家数58とあり、農間稼ぎとして男は縄筵商売、女は衣類・木綿商売とある。
沢根篭町は江戸期五十里篭町といった。元禄期(1688〜1704)頃の「御巡見案内帳」によると、屋敷6反余・畑9反余。「佐州巡村記」では家数39・人数193。沿岸漁業が盛んであった。
今回訪ねたのは県道45号線沿いの町並である。県道45号線の両側に板張りを多用した出桁の家屋も混じる町並が、東から西へ沢根五十里、沢根篭町、沢根町と続く。殆どの家屋は2階建て平入切妻造りで軒を接して隙間なく続いている。今は只の住宅地になっているが、隙間なく見事に続いた町並からは、かっての繁栄が忍ばれる光景だと思った。
町並み指数 40
参考文献  
  角川日本地名大事典  角川書店  角川日本地名大事典編纂委員会  1989年
  新潟県の地名   平凡社  (有)平凡社地方資料センター   1986年


沢根五十里の町並

沢根五十里の町並

沢根五十里の町並

沢根五十里の町並

沢根五十里の町並

沢根篭町の町並

沢根篭町の町並

沢根篭町の町並

沢根篭町の町並

沢根町の町並
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