佐渡市両津夷の町並  
両津夷
地図


両津夷の町並

 佐渡市両津は佐渡島の東部に位置し、平成の大合併までは、佐渡島の政治経済の中心地として機能していた。
戦国期の終わり加茂湖と両津湾を境する礫州上に夷と湊ができた。夷は加茂湖北部の加茂歌代方面、湊は原黒・河崎方面からの移住者により成立した漁村であった。
天正17年(1589)佐渡は上杉領となり、湊城内に陣屋が置かれた。慶長6年(1601)には幕府領となる。
湊・夷は相川金銀山の隆盛により諸物資の移入港として廻船が往来、また、中世末頃から鱈・スケトウ鱈・いか漁が盛んに行われていた。寛文12年(1672)河村瑞軒により西廻り航路が開かれ、安永7年(1778)夷・湊は大坂廻米積出港に指定され、御米蔵ができ年貢米の大坂廻米が行われるようになり大いに繁栄した。
慶応3年(1867)の新潟開港に伴い、翌明治元年夷港は新潟港の補助港として、外国船繋船場に指定されたため、巨費を投じて近代的な港に改修された。同時に夷港には新しい税関が設置され、地理的条件も加わり市街化が進み、小木に代わって佐渡の表玄関とし、漁港・商港として重要な位置を占めた。そして大正6年夷港は両津港と改称された。

さて、今回訪ねた両津夷町は東は両津湾に臨み、西・南は加茂湖に接し、南の両津欄干橋を隔てて両津湊町と境する。南北に延びる本通の加茂湖側の川方と、海側の海方の両側に町屋が並んでいる。村高は元禄7年(1694)検地帳では皆畑3町余で40石余、海方・川方に147屋敷があった。「天保郷帳」42石余。
近世に入り漁業や相川の金銀山の隆盛により夷湊番所も設置され、他国からの物資の移入港として成立した。魚加工の四十物業も盛んで、文政11年(1828)には四十物師13人・小前26人・干物買40人・籠振131人とある。天和(1681〜84)頃に番所が湊町から夷町に移転する。
天保9年(1838)の御巡見様御案内覚には、家数208の他に店借183・酒造5・濁酒屋7・糀室7で、船数は廻船6・小舟75・潟船7がある。
夷港は金銀山が衰退すると、移入港から積出港となり転機を向かえ、大坂廻米の積出で賑わった。
そして今、町を歩くと、海方・川方の両側に古い伝統的な様式の建物が、近代的なホテル旅館に混じって残っている。特別大型の家屋がある訳でないが、明治期の建物もあるようで、古い町並として見られる光景が残されていた。
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参考文献  
  角川日本地名大事典  角川書店  角川日本地名大事典編纂委員会  1989年
  新潟県の地名   平凡社   (有)平凡社地方資料センター  1986年


両津夷の町並

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